このページ名「庭園史」は暫定的なものです。(2019年6月)
タージ・マハルにはイスラム様式である十字水路が採用されている。
庭園の歴史は、個人や公共の景観のなかにおける、芸術や自然を通じた景観に配慮した美の表現、文明生活における趣向や様式の展示[1]、個人的あるいは文化的哲学の表現、そして時には個人の社会的地位や愛国心の顕示として見なされうる[2]。 屋外空間の囲い込みは紀元前1万年ごろに始まった。最初の庭園の具体的な詳細は不明なままであるが、歴史家らは最初の囲いが動物や略奪者を排除するための、一種の障壁であったと推測する。庭園の造成と設計は造園術の先駆けであり、西アジアで芽吹いた後には西へ向かい、ギリシャ、スペイン、ドイツ、フランス、イギリスへと広がった。「庭」を表す"garden"は、フランス語のjardinと壁で守られた植物の育成地yardのチュートン語根が起源となっている[3]。マールテン・ファン・ヘームスケルクによるバビロンの空中庭園のイメージ画。 最初の文明出現後、裕福な市民らは純粋に美観のために造園し始めた。紀元前16世紀における古代エジプトの墓の絵画[4]は、アカシアやヤシの対称の列に囲まれた蓮池が描かれた、装飾的な園芸術やガーデンデザイン(景観設計)の最古の物証である。もうひとつの古代の流派はペルシア人のものであり、アケメネス朝はパラダイス・ガーデン (Paradise garden
概観
ペルシアの影響はアレクサンドロス3世以後のヘレニズムギリシャに広がった。紀元前350年ごろのアカデメイアは庭を擁し、植物学についてまとめたテオプラストスはおそらくアリストテレスの庭を相続した。エピクロスが歩きそして教授した庭はミティリーニのヘルマルコス
(英語版)に遺贈された。アルシフロン(英語版)もその著書にて、自分が有した庭について言及している。西洋で最も影響力を持っていた古代庭園は、エジプトのアレキサンドリアにあったクラウディオス・プトレマイオスのものと、ルキウス・リキニウス・ルクッルスが共和政ローマに持ち込んだ園芸様式であった。イタリアのポンペイにある壁画には、その後の精緻な発展を証明している。ローマの富裕層は、噴水や小川、トピアリー、バラ、そして日陰になるアーチ型建造物などを含む給水機構を備えた、広大な庭園を造設した。考古学的証拠はハドリアヌスの別荘などとして遺跡に残っている。
ローマの作家にして技師であったウィトルウィウスは、現存している最古の設計マニュアルを著した。その『デ・アーキテクチュラ』は設計理論、造園術、工学、上水道、公園や広場といった公共事業を扱っている。彼はfirmitas(固さ・耐久性・強度)、utilitas(有用性・利便性・実用性)、venustas(楽しさ・愛らしさ・美しさ)が設計の主目的だと主張した。現代でも、こうした要素は景観の上質な設計に不可欠だと考える者もいる[5]。
4世紀になりローマ帝国が衰退した後には、ビュザンティオンやアンダルスが園芸様式を受け継いだ。この時までに、中国にて形成された独特の園芸様式が日本に伝えられ、そこでは池を中心とした自然の風景を縮小・再現した貴族庭園や、寺院を特徴づける簡素な枯山水などに発展した。