スコットランドの宗教
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スコットランドの宗教(スコットランドのしゅうきょう)では、スコットランドにおける宗教を解説する。

キリスト教はスコットランドにおける最大の宗教である。2001年度イギリス国勢調査(en)において、スコットランド人口の65%がキリスト教徒であった。しばしばザ・カーク(The Kirk)と呼び表されるスコットランド国教会は、スコットランドの国民教会(en)として法律(en)で認可されている。スコットランド国教会は国教ではなく、国による管理から独立している。しかしスコットランド最大の宗教グループであり、人口の42%が属している。他の主要な宗派は、宗教改革以前のスコットランド伝統キリスト教会であるカトリックで、人口のおよそ16%前後である。カトリックは特にスコットランド中西部とハイランドにおいて重要である。およそ15,000人前後がバプティスト教会スコットランド聖公会(en)、そして保守派の長老派教会である。より小さなグループにクエーカー教徒ペンテコステ派、ゴスペル・ホール(en)がある。出席者の増加を目の当たりにしている唯一の教会は独立した教会で、人気のある福音派の分派も含まれる[1]

ユダヤ教は少なくとも中世最盛期以降にスコットランドで確立された。近年、その他の宗教がスコットランドにおいてその存在を確立してきたが、これは主として移民を通じて、または部分的に改宗者にひきつけられてによる。イスラム教はこれらの中で最も支持者が多く(南アジアからの移民)、他に仏教シク教ヒンドゥー教である。その他の少数派宗教にはバハイ教ラスタファリアニズム、小さなネオペイガニズム集団がある。宗教的信念を持たない、または宗教を明記しない者が28%を占めているのを反映して、積極的にヒューマニズム合理主義世俗主義を促進する多様な組織がある。

正教会はスコットランド都市部のほとんどで顕著な存在感を示している。かつてはギリシャ正教会を通じて保っていたが、その教会はロシアマケドニア共和国ブルガリア、その他の国々(旧ソ連の国々)からやってきた正教会信徒の礼拝の場となっている。
歴史アイオナ修道院入り口にたつ9世紀の聖マルティヌス十字。後方は聖ヨハネ十字セント・アンドリュース大聖堂の跡ウェストミンスターのエドワード王の椅子。スクーンの石はスコットランドに返還され今はないエディンバラにあるジョン・ノックス像

初期のピクト人の信仰は、一般的にケルトの多神教に似ていたと推測されてきた。ピクト人の王がキリスト教に改宗した年月日は不明である。しかし、アイルランドを離れてからのピクト人王国においては聖パラディアス(en)を敬う伝統があった。そしてアバーネシー(パース・アンド・キンロスの村)はブリギッド、そしてキルデアのDarlugdachとつながりがあった[2]。中世ウェールズ語で書かれた詩『ア・ゴドズィン』(Y Gododdin)において、ピクト人が異教徒であるとは述べられていない一方で、パトリキウスは『背教者のピクト人』と述べている[3] 。ピクト人エリートの改宗は、かなり長い期間にわたって行われたと考えられており、5世紀に始まって7世紀まで完了しなかっただろうとされる。ポートマホーマック(イースター・ロス地方の漁村)の修道院の基礎における最近の考古学作業で、この地方は6世紀後半、最後の改宗時期にあったと想定された[4]。これはピクト王ブリデイおよびコルンバと同時代である。ピクト人王国内でキリスト教を確立するまでの過程は、はるかに長い期間にわたって延長されていたのだろう。ピクト人王国はもっぱらアイオナ島アイルランド島から影響を受けたのではなかった。ピクト王ネフタン(en)の治世に見られたように、イングランドの教会ともまたつながりを持っていたのである。717年のネフタンによるアイオナの修道士や聖職者の追放が報告されたのは、ネフタンがローマの慣習を支持していたように見られることからイースターの日付をめぐる論争、剃髪(トンスラ)の習慣に関連していた可能性がある。しかし、王権を教会の上に高めようとする目的があったのかもしれない[5]。それにもかかわらず、地名に残る証拠は、ピクト王国におけるアイオナの影響が広範囲にあったことを示唆している[6]。同様に、アドムナンの法(Cain Adomnain)は、保証人の中にネフタンの弟ブリデイを数えている。

キリスト教はおそらく2世紀頃にスコットランドへ伝来した。そしてしっかりと根を下ろしたのは6世紀から7世紀だった。しかし11世紀までは、スコットランドにおける教会とローマ教皇庁の関係はあいまいであった。スコットランドのケルト系教会は、西洋キリスト教会のその他の土地とは、典礼と聖職者に相違が見られたのである。これらのいくつかは、7世紀終わりのウィットビー教会会議で解消された。そしてアイオナからの聖コルンバの撤退は、11世紀の教会改革を待たねばならなかった。このときにスコットランドの教会はローマの不可欠な一部となるのである。

ピクト王国における修道院中心地の重要性は、おそらくアイルランドにおいてのものよりも小さかった。ストラスペイやパースシャイアのように学問が進んでいた地方では、中世盛期の偏狭な構造が中世初期にすでに存在していた。ピクト王国東部の主要な宗教中心地には、ポートマホーマック、Cennrigmonaid(のちのセント・アンドリュース)、ダンケルド、アバーネシー、ロスマーキーがあった。これらはピクト人王と関連づけられて現れた。王室の保護と教会の管理監督が相当な程度主張されるからである[7]

スクーンの石は、ヤコブが枕に使用した石であると仮定されてきた。1297年、スクーンの石はエドワード1世によって戦利品として奪われ、スクーンからウェストミンスター寺院へ持ってこられた。そこで石は、エドワード王の椅子と呼ばれる古い木の椅子(この椅子に座ってイングランド君主は戴冠した)にはめ込まれた。

キリスト教が信仰される土地ならばある聖人崇敬は、のちピクト人王国で非常に重要となった。ネフタンの場合のペトロ、おそらくアンガス王(en)の場合はアンデレだろうが、王たちは偉大な聖人たちの庇護下にあろうとした。多くはより重要視されておらず、今もって一部は不明瞭である、そういった聖人を王たちは大切にした。ピクト人の聖人ドロスタンは、古代に北部で広く崇拝されたようであるが、12世紀には忘れ去られていた。聖セルウァヌスはネフタン王の弟ブリデイと関連付けられた[8]。古代だけでなく後の時代にもよく知られているように、高貴な血縁集団は自分たちの守護聖人、教会、修道院を持っていたのである[9]

スコットランドの教会は、ケレスティヌス3世の教皇勅書(Cum universi, 1192年)の後、独立した地位を獲得した。ガロウェイと当時ノルウェー王の支配下にあった島嶼部を除く、すべてのスコットランドの司教区は、正式にヨークカンタベリーの独立した教会となった。しかし、同じ頃4つの大司教座があったアイルランドとは異なり、スコットランドには大司教区がなく、スコットランド教会(Ecclesia Scoticana)全体は個々の司教区からなっており、『ローマの特別な娘』であった。

1560年にジョン・ノックスによってスコットランド宗教改革(en)が始まるまでは、その状況は残っていた。カルヴァン派であるノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとした。この時点で、カトリックのミサは非合法化された。メアリー・ステュアートがフランスから帰国してスコットランド統治を開始したとき、ほとんどプロテスタント国家であり、宮廷をプロテスタントが占めていたスコットランドで、自分自身がカトリック教徒であることを認識したのである。
現代のキリスト教

2001年の人口調査で測ると、スコットランド国教会がスコットランド最大のキリスト教宗派である。1921年スコットランドにおける教会法において、国民教会と認定されているが、国教ではない。スコットランド国教会は改革長老教会であり、1690年に決定された教会の政治形態は長老制を採用する。君主(現在はエリザベス2世)はスコットランド国教会の正会員であり、長老総会(en)に王室使節(en)を代表として派遣する。

スコットランド第2のキリスト教宗派は、宗教改革を生き残ったカトリックである。16世紀から18世紀終わりまで続いた弾圧にもかかわらず、特にノース・ウイスト島およびサウス・ウイスト島バラ島では優勢である。


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