スキーフライングはスキージャンプの一種でK点170m、ヒルサイズ185m以上のジャンプ台[1]を使用して行われる競技である。この規模のジャンプ台を「フライングヒル」と呼称し、またこの台で行われる種目も「フライングヒル」と呼称される。
その歴史は1934年、スタンコ・ブロウデクがユーゴスラビアのプラニツァに100mの飛行を可能にするブロウトコヴァ・ヴェリカンカジャンプ台を建設したことに始まる。1936年3月15日にオーストリアのヨーゼフ・ブラドルが史上初めて大台を超える101mのジャンプを成功させた。1950年代に入ると西ドイツのオーベルストドルフやオーストリアのタウプリッツにも150mの飛行が可能なジャンプ台が建設された。
1972年に国際スキー連盟(FIS)主催のスキーフライング世界選手権が開始され、1979-1980シーズンにスキージャンプ・ワールドカップが始まるとその中の1種目とされた。
1994年3月17日にフィンランドのトニ・ニエミネンが史上初めて200mを超えるジャンプを成功させた。現在の最長記録はオーストリアのシュテファン・クラフトが記録した253.5mである。
歴史
飛距離の追求と100mジャンプアメリカのNels Nelsonが1925年にRevelstokeで73.1mを飛んだ。1936年、ブロウトコヴァ・ヴェリカンカを飛ぶFranc Pribo?ek127mの世界記録(当時)を飛んだゼップ・ヴァイラー (右)
20世紀初頭のスキージャンプはノルウェーの選手が圧倒的に強かった。この頃ジャンプの飛距離は多くがアメリカ合衆国の整備されたジャンプ台で更新されたが、主催者はノルウェーの優秀なジャンパーを招いて競技を開催した。1913年、ノルウェー出身のラグナー・オムトベット(Ragnar Omtvedt)がアイアンウッドのジャンプ台で史上初めて50mを超えた。1931年にはシグムント・ルートがスイスのダボスで80mを突破した。
1931年、ユーゴスラビアのエンジニア、スタンコ・ブロウデク(Stanko Bloudek)がこれまでよりはるかに大きなジャンプを可能にするジャンプ台を計画した。クラーニ近郊のプラニツァに建設されたブロウトコヴァ・ヴェリカンカは現在の規格に当てはめると建築基準点(K点)が108mになる巨大なジャンプ台であった[2]。
当時のFISの規定ではジャンプ台に設定された限界距離(極限点、K点)を8パーセント超える飛距離が出るとスタート位置を下げて飛距離を抑えることとなっており、1936年2月に限界距離の最大は80mと定められた。すなわち80+80×0.08=86.4m以上のジャンプは公認されなかった[3]。
1934年3月25日、ブロウトコヴァ・ヴェリカンカでノルウェーのビルゲル・ルートが初めて90mの大台を超える92mを飛んだ[4][5]。1936年までに全体的に50m上方に移動され、K点が120mとなった[5]。限界距離が80mより大きいジャンプ台はFISにより使用禁止となったが、1936年3月のプラニツァの大会は開催された。ノルウェーの選手は協会からこの大会への参加を止められた。
1936年3月15日の大会ではオーストリアの17歳の新鋭ヨーゼフ・ブラドルが史上初めて100mの大台を突破する101mを記録した[6]。
FISによって規制された直後に記録されたこのジャンプが今日、「スキーフライング」の始まりと認識されている[7]。
この大会に参加できなかったノルウェーのシグムント・ルートは1938年に出版した自叙伝でブロウトコヴァ・ヴェリカンカを「ここは人間が自らその身を投げ出す最大の奈落の底である」と評している[5]。
ブロウトコヴァ・ヴェリカンカが建設される数年前の1927年、スイスのエンジニアであるラインハルト・シュトラウマン(Reinhard Straumann)がスキーフライングの基礎研究に空気力学計算を取り入れて構築した[8]。
1936年になって風洞実験によって得られた知見を用いてブロウトコヴァ・ヴェリカンカが改修され、ユーゴスラビアスキー連盟のメンバーはスキージャンプからスキーフライングを独立させるルールを提案した。この提案をFISは考慮しなかった。このため、彼らはその時点で協会のジャンプ委員会のメンバーだったシュトラウマンにスタンコ・ブロウデクとの接触を依頼した。これを受けてFISはスキーフライングを「実験」とみなして、シュトラウマンが空気力学に関する研究を推進するための手法として理由付けした。
その結果1938年にブラドルが107.0mの新記録を樹立し、国際スキー連盟は、プラニツァのフライング台の規制を解除した[6]。しかしそれ以外のジャンプ台については引き続き極限点80mの基準が残された。
1941年にはドイツのルドルフ・ゲーリング(Rudi Gehring)が118mに記録を伸ばした。 第二次世界大戦後数年間ドイツの選手はプラニツァでのスキーフライングをはじめ、ほとんどのスキージャンプの国際大会から締め出されていた。 1948年、スイスのフリッツ・ツァンネン
1950年代初めの議論とオーベルストドルフでの世界新記録
クロッパーはオープニング戦の前に、ドイツのスキーフライング台の建設は、感覚を追うことに戻る意図に設定することはできず、スキージャンプ競技の政治的状況の論理的な結論だったと語った[9]。
オーベルストドルフの街から南に約4kmの地点に1950年2月完成したフライング台はK点が120mで、FISが1936年に基準を定めて以降初めて建設された規格外のジャンプ台であった。[10]。
1950年2月28日から3月6日にかけて第一回国際スキーフライングが開催され、オーストリア、イタリア、スウェーデン、スイス、ドイツの五カ国から選手が参加した。選手は一週間のうちに最低6本の飛行を行い、うちベスト5本の平均飛距離で順位が争われた。初日の2月28日にオーストリアのヴィリ・ガンチュニック(Willi Gantschnigg)が124mの新記録、3月2日にはゼップ・ヴァイラーが127mで新記録、3月3日にはついに130mの大台を突破する。スイスのアンドレアス・デシャー(Andreas Dascher)が130m、ゼップ・ヴァイラーが133m、スウェーデンのダン・ネッツェル(Dan Netzell)が135mを記録した。この大会の優勝者は平均飛距離127.2mのゼップ・ヴァイラーだった[11]。翌1951年の同大会ではフィンランドの19歳タウノ・ルイロ(Tauno Luiro)が139.0mを記録した。
記録の急激な伸びは明らかにスキーフライングの進歩を示していた。第一回スキーフライング週間には延べ17万人の観衆が訪れ、その後の数年間は毎年10万人の観客を集めた。
FISのジャンプ委員長シグムント・ルートは1951年のスキーフライング週間で述べている。スキーフライングはまだ感覚を少し強調し過ぎる感がある[10]。更にその弟ビルゲル・ルートはフライングはスキーの不倶戴天の敵として非難した。一般人のスキージャンプに対する興味が低下し、フライングはスポーツの興味より賭博的な興味が増すだろうと述べた[12][11]。
1950年代初頭での議論のもう一つのポイントは、スキージャンプとスキーフライングを区別するかどうかという問題だった。とりわけ、1950年代に現役でプラニツァとオーベルストドルフの両方でジャンプをしたヨーゼフ・ブラドルは、これを否定した。彼は1952年に出版した自伝で次のように述べている。スキージャンプでは技術的・体力的に整えばだれでも100から120m飛行することが出来る。しかし、このような大ジャンプを完璧に成功させるには気象状況・選手のコンディションが整うことが必要で、それは普通のジャンプよりも稀である。したがって危険性は高い。このような理由から私はスキーフライングは競技としては不適当であると考える。しかし、スキーフライングは最高級のスポーツの一つになる責任を負う[13]。
ブラドルやその他の現役選手と対照的に、ラインハルト・シュトラウマンはスキーフライングに空気力学が及ぼす役割のみに注目した。彼は、将来的に、選手が事前に設定した地点を狙って正確に飛ぶ「ターゲットジャンプ」の導入を提案した。また、彼は飛行スラロームについて可能性を検討した。これは、選手は空中で蛇行して飛ばなければならないものである[10]。
タウプリッツとヴィケルスンの新フライング台とK.O.Pの確立(1950-1960年代)クルムスキーフライングシャンツェは1950年にオープンしその後数度改修された。最近の改修は2004年。東ドイツのマンフレート・ヴォルフは1969年にプラニツァで世界新記録を飛んだ。 (写真は1970年のオーベルホフ大会)
1951-1952シーズンからFISはスキーフライングを監督下に置くことを決定した[11]。1950年に完成したタウプリッツのクルム大ジャンプ台が1952年に拡張されてフライング台となった。FISはプラニツァ、オーベルストドルフと合わせた3か所のフライング台持ち回りで年1回「FIS国際スキーフライング週間」を開催することとした[12]。したがって1953年の国際スキーフライング週間はクルムで開催、プラニツァでは次年度の開催となった。オーストリアとユーゴスラビアでの試合は、財政的にも競技としても失敗だった。ドイツのニュース誌シュピーゲルは、乱立する巨大なスポーツイベントの1つになったこの3ジャンプ台のイベントにおいて新しいレコードの達成は事実上不可能であることを指摘した。1955年にオーベルストドルフで開催されたスキーフライング週間では飛距離に制限が設けられた。K点(オーベルストドルフは120m)距離の108パーセントを飛距離の上限に定め(120×1.08=129.6m)、また飛距離だけでなく、初めて飛型点が導入され、総得点で順位を決定することとした。これらの決定は飛型審判の主観が入るとして観客に不評であったが[14]、スキーフライング週間はFISの次シーズンのプログラムにも加えられた。
FISは1957年のスキーフライング週間が「大成功」だったと述べた[12]。この時期もっとも成功したジャンパーは東ドイツのヘルムート・レクナゲルで、1957年から1962年のスキーフライング週間で5度の優勝、2度最長不倒を記録した。しかし1951年のタウノ・ルイロの記録を上回ることは無かった[8]。1961年、ユーゴスラビアのJo?e ?libarが141mを飛んで10年ぶりに世界記録を更新した。
1962年クルムでのFISスキーフライング週間の際には14カ国から当局関係者、コーチ、FIS審判員が参集した。リュブリャナの会議では、オーベルストドルフヒルの建築家ハイニ・クロッパーの提案で1962年10月27日にスキーフライングの国際協会が設立された。新設された「国際スキークラブプラニツァK.O.P.」(KOPは3つのフライングジャンプ台クルム(Klum)、オーベルストドルフ(Oberstdorf)、プラニツァ(Planica)の頭文字を採ったもの)はスキーフライングに関する権利の保有とFISスキーフライング選手権の主催権を得た[15]。この計画はスキーフライング世界選手権の実現までに10年を要した。この遅延は、主に北欧諸国の拒絶反応に起因した。FISの技術委員会の代表者は、スキープログラムの拡大に取り組み続けた[9]。
1965-1966シーズンに、長年スキーフライングに対して否定的であった北欧で初めてのフライング台が、Osterdalenのスキークラブとの誘致合戦に勝ったヴィケルスンのスキーセンター内に完成した[16]。1966年のオープニングゲームでビョルン・ヴィルコラが145mの新記録を樹立、続けて146mまで記録を伸ばした。ノルウェー人による記録更新は1935年にライダル・アンデシェンが99mを記録した時以来31年振りの事であった。
1967年にオーベルストドルフでラーシュ・グリニが150mの大台に到達、同年ヴィケルスンでラインホルト・バハラーが154mを記録した。
1969年、プラニツァにブラドとヤネスのゴリシェク兄弟の設計による更に巨大なジャンプ台「レタウニツァ・ブラトウ・ゴリシェク」が完成、1969年3月21日にヴィルコラとイジー・ラシュカが156mを飛ぶと翌日にはヴィルコラが160m、ラシュカが164m、3月23日にはマンフレート・ウォルフが165mを記録した。
ヤネス・ゴリシェクは新記録ラッシュの最中1970年に質問に答えて次のように述べている。「良好な条件下で経験豊富なジャンパーは200mの飛行が出来るだろう」
この頃オスロでは200mジャンプが可能な台が計画されたが、構想に留まった[9]。
スキーフライング世界選手権の開始とスキージャンプ・ワールドカップへの参加(1970-1980年代)カッパーピークフライングシャンツェは1970年にオープンし1995年にクローズされた。マッチ・ニッカネン (写真は2010年)は1980年代に活躍した。
ヨーロッパ以外でも1969年にアメリカ、ミシガン州アイアンウッドにK=145mのカッパーピークジャンプ台が建設され、1970年3月に北米最初のスキーフライング大会が行われた。ただしこのフライング台はヨーロッパのフライング台より規模が小さく、世界記録の更新合戦に加わることは無かった。スキージャンプ・ワールドカップは1981年に1度だけ行われ、1994年限りでFISの公認が切れてしまった。
1971年にオパティヤ(ユーゴスラビア、クロアチア)で開催されたFIS総会にて、1972年にプラニツァで第一回スキーフライング世界選手権を開催することが決定された。
1972年3月23日から26日に行われた第一回スキーフライング世界選手権は強風の影響で1日のみの本戦となり、スイスのヴァルター・シュタイナーが優勝、2位ハインツ・ウォジピヴォ(東ドイツ)、3位イジー・ラシュカ(チェコスロバキア)となった。