スキピオ・アフリカヌス
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス
P. Cornelius P. f. L. n. Scipio Africanus
スキピオの胸像
渾名スキピオ・アフリカヌス
大スキピオ
出生紀元前236年
死没紀元前183年
死没地リテルヌム(現:カンパニア州
出身階級パトリキ
一族スキピオ家
氏族コルネリウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム(紀元前216年)
アエディリス・クルリス(紀元前213年)
プロコンスル(紀元前210年-206年)
執政官 I(紀元前205年頃)
プロコンスル(紀元前204年-201年)
ケンソル(紀元前199年)
執政官 II(紀元前194年)
レガトゥス(紀元前193年、190年、184年)
サリイー(紀元前211年-184年頃)
プリンケプス・セナトゥス(紀元前199年、194年、189年)
指揮した戦争第二次ポエニ戦争シリア戦争
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(: Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマの政治家、軍人プリンケプス・セナトゥスに3回指名された。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥に当たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。
生涯

以降の解説では、他のスキピオ家の人物との混乱を避けるために以下の呼称に統一する。

彼本人を「スキピオ」または「スキピオ・アフリカヌス」

プブリウス・コルネリウス・スキピオを「父プブリウス」

弟ルキウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アシアティクス)を「弟ルキウス」もしくは「ルキウス」

幼少期ハンニバル

執政官を輩出した名門パトリキであるコルネリウス氏族スキピオ家に生まれる。父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、母ポンポニアは社会的に成功したプレブス出身であった。

幼少の頃は敬虔な少年であったらしく、神殿に赴いてはしばしば神々の夢や前兆を目にしたという。また評判のよい彼は早くから公職を経て元老院に入るようにと周囲から勧められており、後に弟ルキウス(後のスキピオ・アシアティクス)と共に24歳で公職を得ることとなる。

それに先立つスキピオ17歳の時に第二次ポエニ戦争が勃発し、多くのローマ人がカルタゴとの戦いに駆り出された。スキピオもローマ軍に参加し、ティキヌストレビアカンナエとローマ軍が敗北を重ねたいくつかの会戦を生き延び、その経験の中でハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。またこの敗戦ではスキピオの周囲からも多くの戦死者が出ており、ティキヌスの戦いでスキピオは父プブリウスの窮地を救う事ができたが、カンナエの戦いでは妻の父であるルキウス・アエミリウス・パウルスが戦死した。この時、スキピオは残存の騎兵勢力を結集し、劣勢を挽回しようとしていたという。

紀元前212年、前述の通り、周囲の勧めでアエディリス(按察官)の公職を得る。立候補の際、スキピオが法定年齢の30歳未満であった為、護民官が立候補に反対したが、スキピオの人気に押されて異議の申し出を取り下げるという一幕もあった。

紀元前211年、父と伯父グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスバエティス川の戦いで戦死。翌年25歳になったスキピオは巧みな挙措と演説で元老院を説得、特例としてプロコンスル(前執政官)待遇でインペリウムを授けられ、新たに派遣される軍団の指揮官として就任する。アエディリスしか公職を経験していない若者にとって異例の抜擢であった。
ポエニ戦争期
ヒスパニア遠征

当時、エブロ川以西のヒスパニアは完全にカルタゴの支配下にあり、ハンニバルの弟ハスドルバル・バルカハスドルバル・ギスコとがこれを統治していた。

海路エブロ川流域に上陸したスキピオは、直接カルタゴ・ノウァ(現カルタヘナ)を急襲して占拠し、カルタゴ勢を驚かせる。敵の勢力の中心部を速やかに攻略したスキピオは、カルタゴ・ノウァの財力を元手にヒスパニア現地民を買収し、カルタゴの圧制からの解放者というイメージを演じる。この時、地元の部族から戦勝祝いとして美しい娘を妾にと贈呈されたが、娘に婚約者[1]がいることを知り、両親から送られた金銀を添えて娘を婚約者のもとへ返したという。また小回りの利く短めの剣・グラディウスもここの工房で生産したという。

こうしてスキピオはヒスパニアでの戦争を有利に展開していったが、同時に元老院の戦略上の関心は遠いヒスパニアにではなく、イタリア本土で対峙しているハンニバルにあることも理解していた。本国からの増援は望めず、スキピオはヒスパニアの現地民からなる軍団を編成する。

紀元前209年、ハスドルバル・バルカをバエクラの戦いで破る。しかし、ここで他のカルタゴ勢を警戒したスキピオは慎重な行動に徹し、結果としてハスドルバルは追撃を受けることなく無事に退却してしまう。これが後にハシュドゥルバル率いるカルタゴ軍にローマ領ガリア・トランサルピナへの侵入を許すという結果を招いた[2]
アフリカ遠征への布石

その後、スキピオはヒスパニアの部族を次々と攻略し、イリッパの戦いでカルタゴの残存勢力をヒスパニアから一掃する。この時点でスキピオは北アフリカへの進攻を模索しており、その戦略の一環として、カルタゴ勢として戦ったヌミディア王国との同盟交渉のため、ローマ側の使節として友人のガイウス・ラエリウスを送った。しかしヌミディア王子シュファクスはスキピオ以外の人物との交渉を拒否、危険を承知しながらもスキピオは海路ヌミディアへ赴く。[3]

交渉の結果、シュファクス及びマシニッサ両王子との同盟が成立したが、シュファクスは後にスキピオを裏切ってカルタゴへ鞍替えしてしまう。


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