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出典検索?: "スキピオ・アエミリアヌス"
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌス
P. Cornelius P. f. P. n. Scipio Africanus Aemilianus[1]
「ヘレニズム・プリンス」像(小スキピオ像とする想定がある)[2]
渾名小スキピオ
出生紀元前185年
死没紀元前129年
出身階級パトリキ
一族スキピオ家
氏族コルネリウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム(紀元前151年、149-148年)
レガトゥス(紀元前150年、140-139年)
執政官 I(紀元前147年)
プロコンスル(紀元前146年)
ケンソル(紀元前142年)
執政官 II(紀元前134年)
プロコンスル(紀元前133-132年)
アウグル(?-129年)
指揮した戦争第三次ポエニ戦争
ヌマンティア戦争
配偶者センプロニア
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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌス(ラテン語: Publius Cornelius Scipio Africanus Aemilianus、紀元前185年 - 紀元前129年)は、共和政ローマ中期の政務官。パトリキの名門アエミリウス氏族の生まれだが、コルネリウス氏族スキピオ家に養子入りし、2度にわたって特例で執政官に選出され、養祖父大スキピオが降伏させたカルタゴを破壊し、泥沼のヌマンティア戦争を終結させた。
スキピオ・アエミリアヌスと省略され、第二次ポエニ戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)と区別して小スキピオとも称されるため、以下文中では「小スキピオ」と記載する。
出生ジョセフ・ブノワ・スヴェ『コルネリアとグラックス兄弟』(1795年頃)ブザンソン美術館所蔵
ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスの息子として誕生したが、その後大スキピオの長男で病弱だったプブリウスの養子としてスキピオ家に入り、以降は「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス」を名乗った。プルタルコスによれば、マケドニクスの子のうちでも最も期待された活発な子であったという[3]。
実のおばであるアエミリアは養祖父大スキピオの妻で、大スキピオは義理のおじにもなる。実兄のクィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスもクィントゥス・ファビウス・マクシムスの養子になっている。
大スキピオの娘コルネリア・アフリカナは、年の離れた大グラックスと結婚して3人の子を儲けた。グラックス兄弟とセンプロニアで、そのセンプロニアが小スキピオの妻であり[4]、兄弟とは生来の血縁に加えて義兄弟という立場でもあった。ティベリウス・グラックスは小スキピオの下で働き、多くのものを学んだといい[5]、弟ガイウス・グラックスも小スキピオの下で従軍している[6]。
ルキウス・アエミリウス・パウッルス:実祖父
ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス:実父
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス:実兄
小スキピオ
アエミリア:実のおば、大スキピオの妻
スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ):養祖父
プブリウス・コルネリウス・スキピオ:養父でおばの実子
小スキピオ(養子入り)
コルネリア・アフリカナ:養父の妹
大グラックス:養父の妹の夫
センプロニア:妻、養父の妹の子
ティベリウス・グラックス:妻の兄弟
ガイウス・グラックス:妻の兄弟
経歴
ポリュビオスとの出会いヤコブス・ボイス『破壊後カルタゴの前に立つスキピオ・アエミリアヌスとポリュビオス』(1797年頃)アムステルダム博物館所蔵
紀元前168年には実父アエミリウスが指揮する第三次マケドニア戦争に従軍しピュドナの戦いに参加している。追撃部隊に加わった小スキピオは行方不明となって全軍が落胆したが、返り血で血まみれになって戻ってきたという逸話が残っている[7]。実父によってアンティゴノス朝は滅ぼされ、アカイア同盟の指導層1000名がローマに連行されたが、この中に騎兵隊長であったポリュビオスも含まれていた。彼はアエミリウスの知己として彼の家に滞在し、ストア派のパナイティオスと共に小スキピオとその兄の家庭教師を務め、特に小スキピオとの友情を育んだ[8]。