スカルノ
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スカルノ
Soekarno


インドネシア共和国
初代 大統領
任期1945年8月18日1967年3月12日
副大統領モハマッド・ハッタ(1945年-1956年)

出生1901年6月6日
オランダ領東インド

スラバヤワティ
政党インドネシア国民党

スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、姓なし、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシア植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。

Soekarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説カリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。
経歴
生い立ち1916年

オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。

名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno[1]」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。

幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学した。

同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年バンドンに創設した高等工業学校(現バンドン工科大学)に入学。1926年5月に卒業している。
反植民地運動1930年代モハマッド・ハッタとともに日本軍とともに(1942年)

オランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノは、大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成した。

その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。

1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁錮刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島エンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。
第二次世界大戦下

1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にオランダ本国がドイツに占領され(オランダにおける戦い)本国政府はイギリス亡命したが、その後もオランダ植民地政府による植民地支配は続いた。

その後1941年12月に太平洋戦争大東亜戦争)が始まると、アメリカ領フィリピンイギリス領マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまにオランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、オランダ植民地政府とその軍隊は、多くの兵器のみならず在留オランダ人や抑留されたドイツ人をも放置したままオーストラリアに逃げることとなった。

その後すぐに第16軍司令官である今村均は、オランダ植民地政府に囚われていたスカルノやハッタらを解放し、今村は日本軍統治下でのインドネシアの民生の安定のために、知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の日本軍による占領への協力を要請した。

他方のスカルノらもまた「民衆総力結集運動」を組織し、インドネシアの独立のために日本軍に協力し、イギリス軍アメリカ軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍と対峙することを選択した。1943年にはハッタとともに招かれて日本を訪問し、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、独立への理解が高い日本の協力を得る形での将来のインドネシア独立への道筋を作っていった。

その後も、日本軍が緒戦にてオランダ軍を完全に放逐していたインドネシアは、殆ど戦禍に巻き込まれることがなく終戦まで平穏な状態が続いたものの、日本は1944年に入ると1国でイギリスアメリカオーストラリアニュージーランド中華民国フランスなどを中心とする複数の連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、1945年8月15日敗戦へと追い込まれる。
インドネシア独立宣言モハマド・ハッタとともに独立宣言を行うスカルノ(1945年)

日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府がオーストラリアに逃亡したままという権力の空白をぬった形で、スカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言した。

しかし、これを認めないオランダは、周辺に植民地を持つイギリスやオーストラリアなどの助けを受けて軍を派遣し、軍事力による同地の再植民地化に乗り出した。これにより、独立したばかりのインドネシア共和国と旧連合国の支援を受けたオランダとの「インドネシア独立戦争」が勃発した。
戦後の混乱ファトマワティとスカルノ(1948年)

当初はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダは本国が戦火に見舞われた上にドイツに占領されていたこともあり国力が低下していた上、インドネシアから強力な日本軍に完全に放逐されたため、日本軍が放置していった兵器と、残存した一部日本軍将兵の助けを受けたインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられた。

なお、オランダを支援しようとしたイギリス軍オーストラリア軍もオランダと同じく国力が低下していた上に、インドマレー半島などのアジアの植民地における独立運動が活発化していたため、オランダを支援するだけの余力は残っていなかった。


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