スカイラブ離脱するスカイラブ4号から撮影されたスカイラブ
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COSPAR ID1973-027A
スカイラブ(Skylab)は、1973年から1979年まで地球を周回した、アメリカ合衆国が初めて[2]打ち上げた宇宙ステーションである。ラブは「laboratory」(実験室)の略で、直訳すると「空(そら)の」「実験室」であるように、主として、宇宙開発の基礎となる実験や地球観測や長時間の無重量環境を必要とするような自然科学や科学技術の実験に使われた。
この間、1973年5月から1974年2月にかけ3度にわたって宇宙飛行士が滞在し、アメリカの宇宙機関NASAによる様々な研究や太陽観測、システムの開発などが行われた。機体はサターン5型ロケットの第三段S-IVBを改造して製造され、総重量は68.175 トンであった。それぞれの飛行ではアポロ司令・機械船を搭載したサターン5型より小型のサターンIBロケットが、一度に3名の宇宙飛行士を送り届けた。最後の2回の飛行では予備のアポロ宇宙船を載せたサターンIBが地上に待機し、緊急時に軌道上にいる飛行士を救出するのに備えていた。
機体は発射された直後からトラブルに見舞われた。微小隕石保護シールドが空気抵抗により軌道実験室から脱落し、その結果2枚あった太陽電池のうちの1枚が引きちぎられ、残る1枚も展開できなくなった。これにより電源の大部分が奪われ、また強烈な太陽光からも機体を保護できなくなってしまった。一時は計画そのものの実行も危ぶまれたが、第一次飛行の飛行士らは史上初となる宇宙空間における修理作業を行い、代替の熱保護シールドをかぶせ引っかかっていた太陽電池を展開させるなどした結果、システムを回復させることに成功した。
機体には、マルチスペクトルで太陽観測を行うアポロ搭載望遠鏡 (Apollo Telescope Mount)、二つのドッキング口を持つ複合ドッキングアダプター、船外活動用のハッチがついた気密室、軌道実験室、居住空間などが搭載されていた。電力は太陽電池と、アポロ宇宙船の燃料電池から供給された。また機体後部には巨大な廃棄物貯蔵タンクや、姿勢制御ロケットのための燃料タンク、放熱器などがあった。
稼働中には多数の科学実験が行われ、中でも太陽のコロナホールの存在はスカイラブによって初めて確認された。地球資源実験装置群 (The Earth Resources Experiment Package, EREP) は可視光線、赤外線、マイクロ波などを使用したセンサーで地球を観測し、データを記録した。さらに数千枚の写真が撮影され、また人間の宇宙における滞在時間の記録はソビエト連邦のソユーズ11号の乗組員がサリュート1号で達成した23日間から、スカイラブ4号の乗組員により84日間にまで更新された。スペースシャトルを使用して軌道を上昇させて修理し、改装して再使用する計画も立てられたが、シャトルの開発が遅れたためかなわなかった。機体は1979年に大気圏に再突入し、無数の破片に分解して西オーストラリア州に落下した。スカイラブ以降のNASAの宇宙ステーション計画は、スペースラブ、シャトル・ミール計画、フリーダム宇宙ステーション (後に国際宇宙ステーションに統合される) などによって継承された。
背景スカイラブ2号が撮影したスカイラブ本体スカイラブ本体の接近画像。ハッセルブラッド社製70mm携帯カメラで、100mmレンズとSO-368 Ektachrome中速フィルムを使用して撮影
ロケット技術者ヴェルナー・フォン・ブラウンとSF作家のアーサー・C・クラーク、および他の有人宇宙飛行に対する初期の賛同者らは1960年代までに、宇宙ステーションは宇宙開発の初期段階における重要なステップになるであろうと予想していた。ブラウンは1952年から1954年にかけ、雑誌コリヤーズ (Collier's) で連載された「人類はまもなく宇宙を征服する! (Man Will Conquer Space Soon!)」という題名の一連の感化的な記事の作成に参加していた。彼の構想は直径75メートルの巨大なリング型のステーションを回転させ、それによって人工重力を発生させるというものであった。またそれを軌道上で建設するためには、重量6,500トンの複数のスペースシャトルが必要になるとされた。