スカイラブ計画
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スカイラブ離脱するスカイラブ4号から撮影されたスカイラブ

詳細
COSPAR ID1973-027A
SATCAT番号06633
コールサインスカイラブ
乗員数3名
打上げ日時1973年5月14日
17:30:00 UTC
発射台ケネディ宇宙センターケネディ宇宙センター第39発射施設
再突入1979年7月11日
16:37:00 UTC
オーストラリア・パース付近
質量77,088 kg (169,950 lb)[1]
居住空間10,000 cu ft (283.17 m3)
近地点269.7 mi (434.0 km)
遠地点274.6 mi (441.9 km)
軌道傾斜角50°
公転周期93.4分
日周回数15.4
周回日数2,249日
滞在日数171日
総周回数34,981
飛行距離~890,000,000 mi
14,000,000 km
1979年7月11日軌道離脱現在
詳細図
アポロ司令・機械船がドッキングしたスカイラブ概略図

スカイラブ(Skylab)は、1973年から1979年まで地球を周回した、アメリカ合衆国が初めて[2]打ち上げた宇宙ステーションである。ラブは「laboratory」(実験室)の略で、直訳すると「空(そら)の」「実験室」であるように、主として、宇宙開発の基礎となる実験や地球観測や長時間の無重量環境を必要とするような自然科学や科学技術の実験に使われた。

この間、1973年5月から1974年2月にかけ3度にわたって宇宙飛行士が滞在し、アメリカの宇宙機関NASAによる様々な研究や太陽観測、システムの開発などが行われた。機体はサターン5型ロケットの第三段S-IVBを改造して製造され、総重量は68.175 トンであった。それぞれの飛行ではアポロ司令・機械船を搭載したサターン5型より小型のサターンIBロケットが、一度に3名の宇宙飛行士を送り届けた。最後の2回の飛行では予備のアポロ宇宙船を載せたサターンIBが地上に待機し、緊急時に軌道上にいる飛行士を救出するのに備えていた。

機体は発射された直後からトラブルに見舞われた。微小隕石保護シールドが空気抵抗により軌道実験室から脱落し、その結果2枚あった太陽電池のうちの1枚が引きちぎられ、残る1枚も展開できなくなった。これにより電源の大部分が奪われ、また強烈な太陽光からも機体を保護できなくなってしまった。一時は計画そのものの実行も危ぶまれたが、第一次飛行の飛行士らは史上初となる宇宙空間における修理作業を行い、代替の熱保護シールドをかぶせ引っかかっていた太陽電池を展開させるなどした結果、システムを回復させることに成功した。

機体には、マルチスペクトルで太陽観測を行うアポロ搭載望遠鏡 (Apollo Telescope Mount)、二つのドッキング口を持つ複合ドッキングアダプター、船外活動用のハッチがついた気密室、軌道実験室、居住空間などが搭載されていた。電力は太陽電池と、アポロ宇宙船の燃料電池から供給された。また機体後部には巨大な廃棄物貯蔵タンクや、姿勢制御ロケットのための燃料タンク、放熱器などがあった。

稼働中には多数の科学実験が行われ、中でも太陽のコロナホールの存在はスカイラブによって初めて確認された。地球資源実験装置群 (The Earth Resources Experiment Package, EREP) は可視光線赤外線マイクロ波などを使用したセンサーで地球を観測し、データを記録した。さらに数千枚の写真が撮影され、また人間の宇宙における滞在時間の記録はソビエト連邦ソユーズ11号の乗組員がサリュート1号で達成した23日間から、スカイラブ4号の乗組員により84日間にまで更新された。スペースシャトルを使用して軌道を上昇させて修理し、改装して再使用する計画も立てられたが、シャトルの開発が遅れたためかなわなかった。機体は1979年大気圏に再突入し、無数の破片に分解して西オーストラリア州に落下した。スカイラブ以降のNASAの宇宙ステーション計画は、スペースラブシャトル・ミール計画フリーダム宇宙ステーション (後に国際宇宙ステーションに統合される) などによって継承された。
背景スカイラブ2号が撮影したスカイラブ本体スカイラブ本体の接近画像。ハッセルブラッド社製70mm携帯カメラで、100mmレンズとSO-368 Ektachrome中速フィルムを使用して撮影

ロケット技術者ヴェルナー・フォン・ブラウンSF作家のアーサー・C・クラーク、および他の有人宇宙飛行に対する初期の賛同者らは1960年代までに、宇宙ステーションは宇宙開発の初期段階における重要なステップになるであろうと予想していた。ブラウンは1952年から1954年にかけ、雑誌コリヤーズ (Collier's) で連載された「人類はまもなく宇宙を征服する! (Man Will Conquer Space Soon!)」という題名の一連の感化的な記事の作成に参加していた。彼の構想は直径75メートルの巨大なリング型のステーションを回転させ、それによって人工重力を発生させるというものであった。またそれを軌道上で建設するためには、重量6,500トンの複数のスペースシャトルが必要になるとされた。ステーションに滞在する80名の乗員の中には、望遠鏡を操作するための天文学者、地上の天候を予想するための気象学者、偵察活動を実行するための軍人などが含まれた。またブラウンは、将来的な月や火星への探査はこのステーションを拠点にして行われると予想した[3]:2?5。

その後トランジスター太陽電池遠隔測定法などが発達したことにより、1950年代から1960年代初頭にかけ、無人の人工衛星が雲の様子や敵国の核兵器の開発の状況などを撮影して地上に送ることが可能になった。これにより、上記の目的で巨大なステーションを建設することはもはや不要になった。またアメリカのアポロ計画も、ステーションを拠点に軌道上で月に向かう機体を製造するという方式は選択しなかった。一方で科学的目的においては、1機のロケットで打ち上げられるようなより小型のステーションは依然として検討する価値を残していた[3]:55?60。
初期の研究

1959年、ブラウンはアメリカ陸軍弾道ミサイル局の開発実行部長として、陸軍に彼のホライゾン計画 (Project Horizon) の最終案を提出した。同計画の最終目標は人間をに送ることであり、これは間もなく当時設置が急がれていたNASAに引き継がれた。月飛行計画に尽力する一方で、ブラウンはホライゾンの上段を使用して軌道実験室を建設する計画についても詳細を詰め[4]:23、これが後にスカイラブの構想として使用されることになった[4]:9。1960年代初頭には、NASAの中枢部のいくつかの部門ではさまざまな宇宙ステーションの方式が検討されていた。研究ではサターン5型を使用して拠点を打ち上げ、その後に飛行士を乗せたアポロ司令・機械船[4]:10をサターンIBで打ち上げるか、あるいはタイタンIIジェミニ宇宙船[4]:14を打ち上げる方式が多くの者に注目されており、貨物物資が必要とされない場合においては後者のほうがはるかに経費が少なくてすんだ。提案の中には、2人か3人が滞在するアポロを基本にしたものや、4人が滞在しジェミニによって補給される小さな「円筒」形のものから、約5年の稼働期間で24人が滞在し、回転して重力を発生させる巨大なものまでが含まれていた[4]:13?14。サターン5型の第三段S-IVBを有人の実験室として使用する研究案は、1962年ダグラス・エアクラフト社によって文書化された[5]
空軍案

国防総省とNASAは、宇宙開発の多くの分野で密接な協力関係にあった[3]:198?202。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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