スウェーデン陸軍
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スウェーデン陸軍の紋章

スウェーデン陸軍(スウェーデンりくぐん、スウェーデン語:Forsvarsmakten)はスウェーデン陸軍。現在スウェーデンが保有する軍事組織(スウェーデン陸軍、スウェーデン海軍スウェーデン空軍)では最古の軍種である。
歴史弾痕が残るカール12世の遺体

中世ヴァイキング時代からスウェーデンの武装組織はあったが、現代の陸軍の起源はカルマル同盟が存在していた1521年であるとされ、後のヴァーサ朝以降続く政体での軍事力となる。独立後の陸軍は、リヴォニア戦争北方七年戦争に参戦しバルト海方面に勢力を伸張した。

17世紀は、スウェーデン・ポーランド戦争三十年戦争トルステンソン戦争カール・グスタフ戦争北方戦争)、スコーネ戦争など周辺諸国との戦争が行われた。カルマル戦争では、十分な戦力を保持していたデンマーク王クリスチャン4世のデンマーク軍と多くの傭兵部隊を相手に守勢に立たされた。この頃弱体化していたスウェーデン軍は、ロシア大動乱に参戦していたこともあって、デンマーク軍に苦戦し、1613年にクネレド条約が締結され賠償金を支払ったものの係争地カルマルは守りきった。1658年にはデンマーク領だったスコーネを奪取し、スウェーデンは膨張の極みに達した。この時代は陸軍を基盤とした軍事国家であり、大国時代と呼称されたバルト海世界の覇権国であった(バルト帝国)。また、当時のスウェーデン軍では、主力部隊を国王が直接率いていたいわゆる親征を行ったこともスウェーデンが軍事国家として台頭した一因でもあった。特に、ヴァーサ朝のグスタフ2世アドルフプファルツ朝カール10世及びカール12世が知られている。彼らは直接海外へ遠征し、周辺諸国に強いインパクトを与え、戦地で死んだ。リュッツェンの戦いで敵弾を受けたグスタフ・アドルフ

1611年に即位したスウェーデン王グスタフ・アドルフは、当時最先端だったオランダの軍事理論をドイツで学び[1]、軍事改革を行った。また、彼は海軍の強化も図っている[2]。後世、グスタフ・アドルフがこの軍事改革によって創出したとされるものは多数あるが、中には誤りを指摘されているものもある[3]。例えば、軍隊への制服(軍服)の導入は、それ以前からドイツオランダデンマークに於て行なわれていたと指摘されている[4]。軍事史に於けるグスタフ・アドルフの業績のうち、最も画期的なものの一つ[5]、とされているのが、徴兵制による常備軍の創設である[5][3]

一方、徴兵制は国民の負担が大きかったため、更なる軍備強化には外国人を主体とした志願兵(傭兵)の採用を増やすことが必要だった[6]。外国人傭兵の大部分はドイツ人だったが、スウェーデン・ポーランド戦争以降はイギリス人傭兵も増えた。自国民やドイツ人のように当時スウェーデンが行っていた戦争に関して利害関係のないイギリス人傭兵(その中でも特にスコットランド人)は信頼され、厚遇された。そのため、高い地位を与えられたり貴族に列せられる者は、ドイツ人傭兵との人数比から見ると多かった[7]

高い地位を与えられたイギリス人傭兵はグスタフ・アドルフの死後もスウェーデンに留まっていたが、イングランド内戦が始まると、彼らの多くは帰国した[7]。そして、彼らがグスタフ・アドルフの軍隊で学んだノウハウを基に、イギリス軍の新式化は行われた。スウェーデン軍で傭兵連隊長を経験した後、フランス軍でスコットランド人連隊の連隊長を務めていたジョン・ヘプバーン(John Hepburn)は、フランス軍のスコットランド人傭兵を集めてチャールズ1世のための歩兵連隊を創立した[8][9]。大陸式編成のこの連隊は、王政復古後のイギリス歩兵連隊のモデルとなった[10]。この連隊はイギリスの歩兵連隊に於いて”第1”の番号が冠された、後のロイヤル・スコッツ連隊(現ロイヤル・スコットランド連隊第1大隊)である。カール11世

17世紀後半は、北方戦争でのスウェーデン軍の消耗と財政難により国力が弱体化し、オランダ侵略戦争では周辺国に対して守勢に立たされたが、戦後、カール11世の国政改革の元、陸海軍が強化され、陸軍において再び常備軍が組織された。カール11世が立て直した戦力は、18世紀初頭のカール12世による海外遠征を可能とした。カール11世の軍事改革は、あくまでも防衛体制に準拠したものであり、平時においても戦時体制を維持し軍の動員を速やかに行うための防衛力に主眼が置かれていた。したがってそれは、国内での物資補給による短期の戦争であれば他国への攻撃を可能とし、国王の専制的な指導力によって帝国の地位を維持・防衛する役割として「絶対王政」という統治形態が選択されたのである。

スウェーデンの絶対君主制は軍事と密接に結びついており、国王は軍の最高指揮官ないし軍事独裁者(en krigsdiktatur)と位置づけられた[11]。軍の最高指揮官としての権限は、絶対王政が復活したグスタフ朝時代の国王グスタフ3世及びグスタフ4世アドルフの治世下や、スウェーデンの摂政王太子となったカール・ヨハンの元で行使された。絶対君主制が完全に廃止された19世紀以後も、スウェーデンの君主は20世紀後半まで軍の最高指揮官の地位にあった。

18世紀に入り、長期化した大北方戦争でのスウェーデンの最終的な敗北によって、多くの海外領土を失いロシア帝国が北欧での覇権国として台頭した。国内では劣勢の最中にあってもスウェーデン軍を率い続けたカール12世が戦死したことにより絶対王政が終焉し、1721年のニスタット条約の締結や「自由の時代」の開始と共に周辺諸国の情勢に影響されやすい不安定な情勢となって行く(スウェーデン=フィンランドにおいても18世紀のフィンランドはロシアとの係争地となり、第一次ロシア・スウェーデン戦争まではフィンランドを維持していたが、続く第二次ロシア・スウェーデン戦争での敗北によってスウェーデン=フィンランドは分割され、ロシアの保護下のフィンランド大公国となった)。ナポレオン軍の元帥から国王になったカール14世ヨハン


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