スウェーデン空軍(スウェーデンくうぐん、スウェーデン語:Flygvapnet)は、スウェーデンにおける空軍。2009年時点で現役兵総員約3,600人、その内徴集兵約900人[1]。目次 スウェーデンの軍事航空は1910年代に編成されたスウェーデン陸軍航空隊から始まる。1912年にはストックホルム外港のヴァルタン(Vartan)にて軍用機の初飛行に成功している。スウェーデン海軍はヴァクスホルム
1 歴史
1.1 黎明期
1.2 第二次世界大戦
1.3 冷戦
1.4 ポスト冷戦
2 組織
3 基地
4 装備
4.1 固定翼機
4.2 回転翼機
4.3 ミサイル
4.3.1 任務記号
5 階級
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
歴史
黎明期
1930年代末までにJ5およびJ6 ヤクトファルク戦闘機やJ7 ブルドッグ戦闘機が導入されるも、空軍は明確な戦略と目標を欠いていると批判された。また、同じ時期にはいくつかの重大事故が発生しており1931年と1933年には調査委員会が開かれる。
1937年にサーブ社が設立され、リンシェーピングとトロルヘッタン(SV:Trollhattan)に製造工場が設けられる。リンシェーピング工場ではサーブ社初の戦闘機であるサーブ 17が製造される。これ以降、国外からも航空機の調達が進められイギリス、アメリカ合衆国、ドイツおよびイタリアから機体を購入する。 1939年の第二次世界大戦勃発時、空軍の増強は継続されこれは終戦まで継続される。スウェーデンは参戦しなかったが列強からの軍事的圧力に対抗するため大規模な戦力を整備する必要に迫られた。スウェーデン空軍は1945年までに15個戦闘航空団に約800機の即時投入可能な戦闘機を保有していた。第二次世界大戦中、スウェーデン空軍を最も悩ませた問題は燃料の欠乏であった。周囲を交戦国に囲まれた情勢にあっては輸入に頼ることは出来ず、国内で産出されるオイルシェールを熱処理して合成ガソリン
第二次世界大戦
冬戦争やバトル・オブ・ブリテンの動静は制空戦闘の重要性を印象づけ第13航空団「リンシェーピング」、第14航空団「ハルムスタッド」、第15航空団「セーデルハムン」、第16航空団「ウプサラ」および第17航空団「カリンゲ」、海軍は6個爆撃飛行隊、6個戦闘飛行隊、3個偵察飛行隊および雷撃飛行隊の16個飛行隊が編成されていた。保有航空機数は1939年の約180機から1945年には約600機に増強されていた。 終戦後の1945年から空軍の近代化が推進された。政治的にもはや時代遅れの旧式機を装備することは許容されなかった。空軍参謀本部は国外に要員を派遣し余剰となったノース・アメリカン P-51戦闘機をはじめ、デ・ハビランド モスキート戦闘機、デ・ハビランド バンパイア戦闘機を購入し、そして国内開発を推進した。1950年代初頭にサーブ 29 トゥンナン戦闘機が配備され米英ソ空軍に匹敵する新型戦闘機を保有する。1950年代、空軍はドイツから摂取した構想や技術を導入し、これらを組織基盤に据えた。1954年の調査結果を元に「基地60(Bas 60)」計画では推進され、空軍基地の態勢が刷新されることになる。冷戦間、国防費の多くは空軍の整備(スウェーデン独自の核兵器開発を含む)と軍用機の国内開発に投じられた。1957年には約1,000機の最新鋭戦闘機が第一線配備され、当時世界第4位の規模にまで成長している[2][3]。 コンゴ動乱に対処する国際連合の支援を目的に1961年から1964年まで第22航空団「コンゴ」が編成され、同地に投入される。 指揮航空監視システム(STRIL)の開発により近代的レーダーを取得し、継続的な航空監視体制を確立する。 1972年に新たな防衛政策が策定されたため第2航空団「ハーゲナス」、第3航空団「マームスラッド」、第8航空団「バルカビイ」および第14航空団「ハルムスタッド」は再編成され、各種学校に改編されるなどした。1977年の新防衛政策では第11航空団「ニーシェピング」と第12航空団「カルマル」が1980年に解隊される。この1977年防衛政策では新型戦闘機の開発が決定され最終的にJAS39 グリペン戦闘機として登場する。1982年防衛政策では第1航空団「ハッソロ」が解隊され空軍ソドルトロンス学校が閉鎖される。さらに1986年の議会にて110機のJAS 39戦闘機(このうち30機のオプションを含む)の調達が決定される。 1980年代前半から「基地90(en:Bas 90
冷戦