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スウェーデン・ポーランド戦争(スウェーデン・ポーランドせんそう)は、広義に1563年から1721年までにスウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国の間に幾度となく起こった一連の戦争をいう。
リヴォニア戦争、1558年?1583年
ジギスムンド王との戦い(英語版)、1598年
1600年-1611年の戦争(英語版)
1617年-1618年の戦争(英語版)
1621年-1625年の戦争(英語版)
1626年?1629年の戦争(英語版)
大洪水時代、17世紀後半(北方戦争、1655年?1661年の1部)
大北方戦争、1700年?1721年
第四次対仏大同盟、1806年?1807年
第六次対仏大同盟、1812年-1814年
リヴォニア戦争詳細は「リヴォニア戦争」および「en:Livonian War」を参照
テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。
ジギスムンド王との戦い詳細は「ジギスムンド王との戦い」および「en:War against Sigismund」を参照
1600年-1611年の戦争、1617年-1618年の戦争詳細は「1600年-1611年の戦争」および「en:Polish?Swedish War (1600?11)」を参照詳細は「1617年-1618年の戦争」および「en:Polish?Swedish War (1617?18)」を参照
両国には、王位継承問題が絡み、実質的には1598年以来、戦争状態にあると言っても過言ではなかった。事の発端は、1587年にポーランド・リトアニア共和国合同君主(すなわちポーランド王・リトアニア大公)でヴァーサ家のシギスムンド(ポーランド名ジグムント3世)が1592年にウプサラで戴冠式を行いスウェーデン王に即位したことから始まる。
ジギスムンドは、父親はスウェーデン国王ヨハン3世、母親はカタリーナが共和国合同君主(すなわちポーランド王・リトアニア大公)のジグムント1世とその2番目の妃ボナ・スフォルツァとの間に生まれた娘、すなわちポーランド王女であった。そして将来共和国とスウェーデン王国の国家合同を目指す両国指導層の考えの下に、ポーランド王・リトアニア大公(選挙王制による選挙を経て戴冠)とスウェーデン王(世襲王制で半ば自動的に戴冠)となる最有力候補として子供のうちにスウェーデンから共和国へ預けられ、母カタリーナの故郷であるポーランド王国首都クラクフで、対抗宗教改革(カトリック改革)の主導的存在であったイエズス会によってカトリック教育を受け、自身はカトリック教徒のなかでも非常に先鋭的な思想を持つようになった。
ジギスムンドは母カタリーナの意思を継いで、スウェーデンのカトリック勢力と結んでスウェーデン国内における対抗宗教改革を主導した。しかしスウェーデンの指導層の多くはルター派プロテスタントであり、彼らはスウェーデンでカトリック再布教を進めようとするジギスムンドを国王とすることに不満を募らせるようになった。スウェーデン保守派(すなわちルター派プロテスタント教徒)は1598年にジギスムンドの叔父でありジギスムンドの摂政をつとめていたプロテスタント教徒のカール(カール9世)を擁立してジギスムンドを廃位した。
これを見たジギスムンドは対スウェーデン戦役など全くの無駄だと主張するヤン・ザモイスキ首相や共和国議会(セイム)の反対を押し切って独断でスウェーデンに侵攻したがあっけなく撃退された。共和国によるスウェーデン本土侵攻は、これが最後となった。その後両国は、リヴォニア(リヴォニア公国(英語版))で対立し、スウェーデンは当初は共和国守備隊を攻撃していくつかの要塞を確保したものの王冠領大ヘトマン(ポーランド王国大元帥)を兼任するザモイスキ首相が陣頭で指揮する共和国軍が進撃してくると拠点を次々と奪還された。
スウェーデン王となったカール9世が、共和国のザモイスキ首相兼大元帥が体調を崩して一線から退いたことを知って、1605年にリヴォニアのリガに侵攻し包囲戦を行ったもののそれでもリガを陥落させることが出来ず、今度はリトアニア大ヘトマン(リトアニア大公国大元帥)のヤン・カロル・ホトキェヴィチが率いて進軍して来た共和国軍とのキルホルムの戦いに惨敗、あっけなく撃退された。スウェーデン軍は歩兵9000、騎兵2000から成る大軍で、共和国は重騎兵(ポーランド有翼重騎兵軍団ウィングド・ハッサーすなわちフサリア)2600を主体とした総勢3600の圧倒的少数であったが、戦いが開始されると共和国のフサリア重騎兵はスウェーデン軍に騎馬突撃を行ない、共和国軍の3倍の人員を誇ったスウェーデン王国軍を20-30分のうちに完全粉砕した(スウェーデン側の死者・重傷者・行方不明者は5000-9000人にも及んだ一方、ポーランド側の損害は300人(うち死者100人)に過ぎなかった)。当時のスウェーデンは、宗教改革と1600年のカトリック教徒諸侯の粛清などもあって国力の弱体化の極致にあり、またカール9世が1604年に国王に即位した直後のことでもあり、軍事力、経済力共に強国との差は歴然で戦争を継続させる国力もなく、17世紀初頭にはヨーロッパの最強国の一つであったポーランド・リトアニア共和国の敵ではなかった[1]。
スウェーデンはモスクワ大公国の大動乱(スムータ)に乗じてバルト海沿岸各地の港湾都市に勢力を確保、そのころグスタフ2世アドルフがスウェーデン王位を継承する。一方、当初はモスクワ大公国の大動乱への直接介入を控えていた共和国では、ジグムント3世の政治に反対する議会派有志が起こした強訴「ゼブジドフスキの乱」において、王は反乱者の不満をロシア政策に振り向けることで事態を収拾しようとし、モスクワへの介入が本格化していく。
ローマ・カトリック保守過激派である共和国合同君主ジグムント3世は、ロシア全土のカトリック化を画策していることを隠し、表向きは専制を排した自由な国家連合を結成することを標榜してモスクワ大公国の動乱に介入、快進撃を続けて一時はモスクワを占領した。ゼブジドフスキ反乱の参加者たちは恩赦を受けたのち、モスクワ大公国の民主派を支援しようと進軍した。当時のモスクワ大公国では、共和国はそれまでロシア社会を支配していた専制政治に対抗する政治的自由主義の擁護者と見られており、大法官(首相)兼王冠領大ヘトマン(王国大元帥)のスタニスワフ・ジュウキェフスキが率いる占領者の共和国軍は、当初はモスクワのボヤーレや市民によって、圧政からの解放者として歓迎されていた。ところが、しばらくしてジグムント3世がカトリック保守過激主義の立場を露わにすると、状況は一変した。モスクワ市民は話が違うとして不満を募らせるようになった。緩やかな自由主義の国家連合を構想して信教の自由をボヤーレやモスクワ市民に約束していたジュウキェフスキ大元帥もジグムント3世に完全に裏切られた形となり、その一方で結果的にモスクワ市民を裏切ってしまった形となった。信教の自由を推すカトリック穏健派とカルヴァン派プロテスタントの連合勢力が支配する共和国議会(セイム)はこの戦争への非協力の方針を打ち出した。ジュウキェフスキはセイムの決定に従い、遠征軍の主力を率いてワルシャワに帰還するが、共和国内、および共和国とモスクワ大公国との政治的が調整が行われる間、王の配下の守備隊のみがモスクワ市内に残されることになった。残された守備隊は主に傭兵から成っていて、彼らの一部、特にリソフチツィという傭兵集団はモスクワ市内で不法行為を行い、モスクワ市民はこれに怒り、また以前はツァーリ専制体制の立役者だったモスクワのロシア正教会保守過激派がこの不満にうまく乗ってしまい、1612年、モスクワ市民は反ポーランド主義のナショナリズムで一丸となり、共和国守備隊に対する大反乱を起こした。