スヴェン・ヘディン
生誕1865年2月19日
スウェーデン ストックホルム
死没1952年11月26日
スウェーデン ストックホルム
職業地理学者、探検家
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スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin, 1865年2月19日?1952年11月26日)は、スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家。 ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者のグスタフ・カッセルや数学者のイヴァル・フレドホルム
人物・生涯
1879年に出版されたロシア帝国の外交団が1876年から77年にカシュガル地域を訪れた際の報告書である『カシュガリア』に影響を受けて冒険家を志す。著者は外交団の一員であり、後にロシア満州軍総司令官として日露戦争で指揮を執ることになるアレクセイ・クロパトキンであった。ヘディン自身も1890年にクロパトキンの下を訪問している。
『カシュガリア』の出版とほぼ同時期だったアドルフ・エリク・ノルデンショルドの北東航路の発見に感銘を受け、生涯師事した。ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意し、ペルシア、メソポタミアに旅行(1885年?86年)。
スウェーデン王オスカル2世がペルシアに派遣した使節団の一員としてメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行(1890年?91年)。
ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年?97年)。
1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検した。その間、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。
1905年、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検してインダス川、サトレジ川
(インダス川支流)、ブラマプトラ川(ガンジス川支流)の水源地方を調査。シガツェに至ってパンチェン・ラマの歓迎を受けた。サトレジ川の河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ(英語版)名づけた。カイラス山へも訪れたが、チベット人に入山を禁じられている。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に大谷探検隊で知られ、浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていた[1]。1908年に帰国。1927年に西北科学考査団(英: The Sino-Swedish Expedition)を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新疆省(東トルキスタン)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と第二次世界大戦の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。
1934年にロプノールの復活を自らの目で確かめた後、1935年に帰国したが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待(ヘディンはナチス党員ではなかったが、チベットに興味を持ち、自分の偉業を正当に評価してくれるヒトラーと親密になった)を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持ち[2]、自国に対するドイツの動向を探った。このコネクションを使い、ユダヤ人やナチス・ドイツに占領されたノルウェーのレジスタンス活動家を救い出したこともあった。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人の血筋(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗を一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチスを礼賛したこともあった。
これらの行動が原因で、第二次世界大戦後スウェーデン国内でヘディンは「ナチス・ドイツに協力した人物」として厳しく批判された。
1952年、ヘディンはストックホルムで没した。没する直前まで、探検に関する著述活動を行っていた。
ストックホルムの民族学博物館(スウェーデン語版、英語版)に、ヘディンに関するライブラリーが併設され、蔵書には彼の収集した古文書や彼自身の著作物が含まれている[3]。また、ウプサラ大学とスウェーデン自然歴史博物館に於いても彼の探検に関する事績や採集した鉱石等が保存されている[4][5]。
日本との関わり
1898年?1900年頃から大谷光瑞と交流があり、探検旅行の帰途、大谷、外務省、東京地学協会の招聘[1]で、1908年に来日し、明治天皇に謁見。日本人として初めてチベット入した河口慧海とも書簡を交している。1923年にも来日している。
1948年にはノーベル文学賞候補として日本の賀川豊彦を推薦していたことが、ノーベル財団が公表したノミネートリスト[6]より明らかになっている。
著作