スイスの歴史
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スイスの歴史ではスイス連邦の歴史について述べる。

スイス連邦は、1848年以来カントンと呼ばれる州による連邦共和制をとってきた。スイス連邦の原型がつくられたのは今から700年以上前のことであるため、見方によっては現存する世界最古の共和国であるということもできよう。連邦が成立する1291年以前の歴史に関しては、本稿では現在のスイス領で起こった歴史的出来事について概説していくこととする。1291年以降、永久盟約によって結成された不安定な連合体がどのように発展・拡大していったかを簡潔にまとめる。目次

1 1291年以前

1.1 ローマ帝国の衰退まで

1.2 ヴェルダン条約の爪あと


2 原初同盟の成立(1291年-1523年)

3 宗教改革の嵐(1523年-1648年)

4 アンシャン・レジーム(1648年-1798年)

5 ナポレオン時代(1798年-1848年)

6 スイス連邦の成立(1848年-1914年)

7 2つの世界大戦(1914年-1945年)

8 1945年以降のスイス

9 脚注

10 参考文献

1291年以前詳細は「初期スイスの歴史(英語版)」を参照
ローマ帝国の衰退まで

スイスの都市クール(ドイツ語: Chur)など5000年以上前の歴史がある。具体的には紀元前3900年から3500年頃のフィン文化(Pfyn culture)まで遡ぼれる。考古学の研究によれば、アルプス北部の低地諸国に人間が住むようになったのは旧石器時代の後期のことである。新石器時代に入ると住民が増え、青銅器時代になると湖上に高床式の家をたてて人々が暮らしていた痕跡が発見されている。紀元前15世紀ごろ、ケルト人ヘルウェティイ族が住み着いた。当時、今日のスイスに相当する地域を版図としていた政治勢力は、彼らの部族国家と、スイス東部に住んだラエティ人(英語版)と呼ばれる非ケルト系の集団であった。

紀元前3世紀以降、共和政ローマはイタリア半島の北の守りとして、ヘルウェティイ族の勢力圏に勢力を伸ばしていった。当時のローマ人はこの地域をヘルウェティイ人の部族国家名からラテン語でヘルウェティイ族の土地を意味する「ヘルウェティア」と呼んでいた。紀元前58年ゲルマン人の圧迫をうけたヘルウェティイ族は西方への民族移動を開始したが、移動によって統治構造のバランスが崩れることを恐れたユリウス・カエサルはこれを実力で阻止すべく進軍。ビブラクテの戦い(英語版)でヘルウェティイ族を打ち破ってヘルウェティイ族の国を滅ぼし、この地を占拠した。これ以降、ローマ帝国は同国の治安維持と開発による安定化策(ヘルウェティア)を進めた。当時の統治の中心都市はラテン語でアウェンティクム(ラテン語: Aventicum、今日のアヴァンシェ(英語版))であった[1]259年になると、当時のゲルマニア地方の動乱状況を経てゲルマン系のいくつもの古い部族が融合して形成された新興勢力であるアラマンニ人がヘルウェティアに侵入し、ローマ帝国の統治基盤を揺るがした。

4世紀に入ってキリスト教の司教区が初めてスイス地域に設立された。このころになると西ローマ帝国の統治能力は低下しており、ゲルマン系集団が流入してスイス地域にブルグント王国を築いた。5世紀にローマ帝国がスイスから撤退していくとアレマン人が再びスイスに流入した。ここでアレマン人・ブルグント人・ラエティ人(英語版)・ランゴバルド人の4民族がスイスで共存するようになり、ドイツ語フランス語ロマンシュ語イタリア語がスイスで用いられる基礎を作った。
ヴェルダン条約の爪あと

6世紀に入るとスイスはフランク王国の統治下におかれた。不安定なメロヴィング朝は戦闘民族アレマン人の自治を認めた。8世紀、アレマン公が今でいうバーデン=ヴュルテンベルク州アルザス地域圏・スイス北部をふくむ地域を支配下とし、複雑な住民構成に合わせ『アレマン法典』を編纂・通用させた。841年ヴェルダン条約により、スイスの西部はロタール1世中フランク王国、スイスの東部はルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国となった。870年メルセン条約で中フランクからイタリア王国ができた。そこでマジャール人が917年にバーゼル、927年にザンクト・ガレンを破壊した。イスラム教徒が940年から980年にかけてヴァリスにまで攻めてきた。外寇が度重なった時期に、スイスの諸地域が自立化した。それらはイタリア政策の目標となった。

11世紀までにはスイス全域が神聖ローマ帝国の支配下に入った。12世紀には古ブルグント王国の領域の支配者は神聖ローマ帝国によって封ぜられたシュヴァーベン公からツェーリンゲン家へと引き継がれていた。ツェーリンゲン家はスイスを自らの勢力基盤として整備し、フリブールベルンといった都市を築いた。1218年にツェーリンゲン家の血統が絶えたことでそのスイス支配は終わったが、その後を縁戚のキーブルク家が継ぎ、さらにキーブルク家の後を縁戚のハプスブルク家が継いだ。「ハプスブルク」という家名は、同家の祖がスイスのアールガウ地方に築いた城が「鷹の城」(ドイツ語: Habicht burg - ハービヒツブルク、後にSchloss Habsburg)と呼ばれていたことに由来している。ハプスブルク家はスイスでじわじわと力をつけていった。

13世紀になってザンクト・ゴットハルト峠が開通すると、ヨーロッパの南北を結ぶ交通の要衝、交易ルートとしてスイスの地理的重要性が高まった。特にその通路にあたるウーリ州は交易を利用して経済力をつけた。ツェーリンゲン家が絶え、家領の帰属が神聖ローマ帝国に移ったとき、ウーリは抵当権を自ら買い戻すことで自治権を獲得した。やがてウーリに隣接するシュヴィーツ州ウンターヴァルデン州も自治権を手にした。ハプスブルク家出身で初めて神聖ローマ皇帝となったルドルフ1世の死後に行われた選挙で、ルドルフの子アルブレヒト1世は神聖ローマ皇帝に選ばれなかった。失意のアルブレヒトは自分の根拠地であるスイスの経営に専念したが、スイス人たちはこのアルブレヒトによって自分たちの権利が失われるのではないかと危惧した。1291年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちは集まって対ハプスブルク家自治独立を維持するための永久盟約を結んだ[2]。これがスイス連邦の原型である「原初同盟」(盟約者団)の結成である。このシュヴィーツ州という地名こそが「スイス」の語源となっていくのである。有名なウィリアム・テル(ヴィルヘルム・テル)の伝説はこの時代を舞台としている。
原初同盟の成立(1291年-1523年)詳細は「原初同盟(ドイツ語版、英語版)」を参照

伝説では原初同盟(誓約同盟)の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒ(ドイツ王フリードリヒ3世)がバイエルン公ルートヴィヒ(ドイツ王ルートヴィヒ4世)と帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。


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