スイアブキルギス語: Суйаб, Суяб
ペルシア語: ??? ??
中国語: 碎叶(碎葉)[2]
Suyab
多民族を描いた壁画
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別名Ordukent[要出典]
所在地キルギスタンチュイ州
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度48分18.8秒 東経75度11分59.6秒 / 北緯42.805222度 東経75.199889度 / 42.805222; 75.199889
スイアブ(キルギス語: Суйаб(Суяб)、中国語: 簡: 碎叶(繁: 碎葉)、ペルシア語: ??? ??、Suyab)は、かつて中央アジアに存在した都市。イシク・クル湖の北西、チュー川の沿岸に位置し、キルギス共和国のトクマク付近に存在していたと考えられている[3][4]。都市の名前はスーイ川(チュー川)を意味する言葉の「S?y-?b」に由来すると考えられている[5]。唐代の漢語資料では「中国語: 碎葉」「中国語: 素葉、?合」と音写される[3][2]。
シルクロードにおいては、天山北路の通過地である[6]。 ジュンガル盆地からイリ地方を経由して西方に向かう交易路、トランスオクシアナ方面から東方のジュンガリア、イリ、モンゴル高原に向かう交易路、中国からタリム盆地を通り、ベデル峠 隋以前からスイアブは中継交易の拠点として存在していたが、6世紀の突厥の台頭以降、町の重要性はより高まる[3]。突厥はスイアブを西方に進出するための軍事基地に選び、西突厥の本拠地にも定められる[5]。679年、タリム盆地に進出した唐軍によってスイアブは占領され、「#碎葉鎮」[7]と改称されて719年まで〈安西四鎮〉の一つに数えられた[5]。唐の支配下のスイアブでは大規模な築城が実施され、武則天の治世には、スイアブに大雲寺が建立される。スイアブは遊牧民、パミール高原以西の国家との通交の拠点とされたが、テュルク系遊牧民の攻撃によって不安定な状況下に置かれていた[3]。 唐の衰退後、突騎施(テュルギシュ)がスイアブを占領して本拠地とし、西方から進出するイスラーム勢力に対抗した[3]。カルルクが台頭した10世紀には国際交易都市の機能はベラサグンに移り、スイアブは衰退する[3]。 キルギス共和国のトクマク南西部には、ソグド人の住居跡、ネストリウス派キリスト教、仏教の寺院跡を含む、アク・ベシム遺跡が存在する(キルギス語: Ак-Бешим、Ak Beshim)[4][8][9]。1893年から1894年にかけて現地で調査を行ったワシーリィ・バルトリドの報告、アレクサンドル・ベルンシュタム 1953年から1954年にかけて発掘を行ったキズラソフは、アク・ベシムは11世紀にはすでに放棄された都市であり、14世紀まで繁栄を保っていたベラサグンとは別の都市であると結論付け、アク・ベシムはかつてのスイアブの遺構であると証明された(論文発表は2003年)[8]。
歴史
唐の進出
アク・ベシム遺跡