スィッフィーンの戦い(???? ????、英:Battle of Siffin)は、657年6月-7月(イスラーム暦37年1月-37年2月)にユーフラテス川上流域(シリア北部)のスィッフィーンで行なわれた第4代正統カリフ、アリー・イブン・アビー=ターリブとシリア総督ムアーウィヤの戦い。イスラーム史における第一次内乱(英語版)(656年 - 661年)の山場。この戦いの結果、アリーの政権が分裂してハワーリジュ派が登場し、彼らによってアリーが殺害され、ムアーウィヤがカリフとなってウマイヤ朝を建てる。 656年、第3代正統カリフ・ウスマーンがメディナで反対派によって暗殺された。ウスマーン殺害者らは、預言者ムハンマドの娘婿で人望厚いアリーを新たなカリフとして擁立した。しかしウスマーンの従兄弟であったシリア総督ムアーウィヤはアリーのカリフ位就任に異をとなえ、ウスマーン殺害者の糾明と処刑を求めた。アリーはウスマーン殺害に関与したわけではないとされるが、ウスマーン殺害者を処罰するための力を持たず、彼らと妥協せざるを得なかった。そのためムアーウィヤはアリー自身がウスマーン殺害に直接関わったものと判断し、ウスマーンの復讐とアリーの打倒を主張した。 9月はじめ、ムアーウィヤはアリーに使者を送って事実上の宣戦布告を行なった。アリーはシリア遠征の準備をはじめたが、その直後、かねて反アリーの態度を取っていたサハーバのタルハとズバイル、および預言者ムハンマドの寡婦アーイシャがメッカで挙兵し、第一次内乱がはじまった。アリーは南イラクのバスラ郊外でのラクダの戦い(アラビア語: ????? ????? mwaqah al-jamal)で彼らを破り、そのままメディナへ戻らずにクーファに入城し、ここを新たな拠点とした。 ラクダの戦いの終結後、アリーは側近ジャリール・イブン=アブドゥッラーをシリアへ派遣して講和を呼びかけた。それに対し、ムアーウィヤは智将として知られるアムル・イブン・アル=アースを起用し、彼の策によってシリア全土に流言を流して反アリーの気運を煽り、講和を拒絶した。その後ムアーウィヤは中立派のアブー・ムスリムを使者に立てて、アリーにウスマーン殺害者の引渡しを要求するが、アリーはそれを拒否し、ムアーウィヤを反乱者として激しく非難した。こうして武力衝突が避けられないものとなった。 657年5月(イスラーム暦36年12月)、アリーはイラクとヒジャーズから召集した9万の軍を率いてクーファを進発し、ティグリス川の西岸沿いに北上した。砂漠地帯を横断してイラク北部のラッカでユーフラテス川を渡り、シリア国境のスール・ルームで最初の交戦が行なわれ、イラク軍が勝利をおさめた。一方ムアーウィヤは12万のシリア軍を率いてスィッフィーンの荒野に陣を敷き、川沿いを封鎖して水の供給を確保した上でイラク軍の到着を待ち構えていた。スィッフィーンはアレッポ東方のユーフラテス川西岸に位置する。 両軍の戦いは水場の争奪からはじまった。最初ムアーウィヤは副将アムル・イブン・アル=アースに1万の兵を預けてユーフラテス河岸を確保させており、戦場に到着したイラク軍は渇きに苦しんだ。
目次
1 背景
2 戦いの経過
2.1 スィッフィーンへの進軍
2.2 水場をめぐる前哨戦
2.3 本格的な衝突
2.4 和平協議
3 戦後の影響
4 関連項目
背景
戦いの経過
スィッフィーンへの進軍
水場をめぐる前哨戦
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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