スアンロクの戦い
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スアンロクの戦い
ベトナム戦争

スアンロクに展開するベトナム共和国陸軍第18師団の兵士[1]

時1975年4月9日 - 4月21日
場所ベトナム共和国ドンナイ省スアンロク県(同?省春祿縣)
結果北ベトナム側の戦略的勝利

衝突した勢力
ベトナム民主共和国 ベトナム共和国
指揮官
ホアン・カム(英語版) レ・ミン・ダオ
戦力
40,000名[2]12,000名以上[3]
被害者数
アメリカ側推定:
5,000名以上死傷[4]2,036名死傷
2,731名捕縛[5]

スアンロクの戦い(ベトナム語: Tr?n Xuan L?c/陣春祿, 英語: Battle of Xuan Loc)は、ベトナム戦争における最後の大規模な戦闘である。戦闘は1975年4月9日から始まり、4月21日ベトナム人民軍(北ベトナム軍, NVA)第4軍団がスアンロク市街を占領した事によって終結した。
概要

1975年初頭、北ベトナム軍はほとんど防備の置かれていなかったベトナム共和国北部への侵攻を開始した。中部高原では、ベトナム共和国陸軍(南ベトナム軍, ARVN)の第2軍団戦術区域(英語版)が崩壊し、残存部隊はメコンデルタ方面への撤退を開始していた。またフエダナンなどに駐在していた南ベトナム軍部隊は全くの抵抗を行わずに無力化されたという[6]。南ベトナム軍が敗走を続けるようになると、ベトナム共和国議会ではグエン・バン・チュー大統領の戦争指導に対する疑問と批判が高まり、やがて辞任を求める声も出始めた[7]

チュー大統領は共和国を防衛する為の最終的な抵抗として、唯一戦力を保っていた南ベトナム軍第18師団(英語版)に対して総力を上げてスアンロクを防衛するようと命じた[8]。一方の北ベトナム軍では、サイゴンへの進路確保を任務とする北ベトナム軍第4軍団がスアンロクへと進軍しつつあった[9]。こうしてベトナム人同士の12日間にも渡る激戦が幕を開けたのである。この戦闘は、主に南ベトナム軍将兵の勇敢さと共に記憶されている。戦闘の初期段階では、南ベトナム軍第18師団が北ベトナム軍の攻勢を複数回にわたって撃退に成功しており、北ベトナム側は当初計画されていた作戦と戦術を大きく転換することになった[10]

1975年4月19日、完全にスアンロクが孤立した後になって、ようやく南ベトナム軍部隊に撤退の許可が与えられた。スアンロクでの敗北の後、10年以上もベトナム民主共和国(北ベトナム)の共産主義者と戦い続けてきたチュー大統領はついに辞任に追い込まれた[7]
背景

1975年に入ると、戦況の悪化を反映しベトナム共和国の政治情勢は深い混乱に陥った。特にチュー大統領に対しては少なくとも2度の暗殺が試みられ、また阻止されている。1度目は1月23日、南ベトナム陸軍のある将校がピストルでチューを銃撃した事件である。暗殺失敗後、この将校は軍法会議で裁かれている[11]。2度目は4月4日、ベトナム共和国空軍(南ベトナム空軍, VNAF)のパイロット、グエン・タイン・チュン中尉がF-5戦闘機を使って独立宮殿を爆撃した事件である。なお、チュン中尉は1969年以来潜伏していたベトコンの秘密党員であったことが後年になってから判明している[11]。これらの事件の後、チュー大統領は自軍将校に対して不信を抱くようになったという[11]

4月2日、議会からグエン・バ・カン(英語版)を指導者とする新体制が提案され、首相チャン・ティエン・キエム(英語版)将軍が辞任する。チューはすぐにキエムの辞任とカンの首相就任を承認した[12]。4月4日、チューはサイゴン放送を通じて首相の交代について報告すると共に、3人の陸軍将校の逮捕を命じた。ファン・バン・フー(英語版)少将は中部高原での大敗の為、ファン・コク・トゥアン(英語版)大将はニャチャン防衛失敗の為、ズー・コク・ドン(英語版)中将はフオクロン防衛失敗の為に逮捕された。また第1軍団戦術区域司令官のゴ・クアン・チュオン(英語版)大将は入院していた為に処罰を免れている[13]

4月3日のフレデリック・ウェイアンド米陸軍大将との会談において、チューはベトナム共和国の最終的な防衛戦略の概要を語り、共和国に残っているいずれのものをも共産主義者に渡さず保持する旨を誓ったという。ここで彼が語った戦略の中で、タイニンとファンティエットから近いスアンロクこそが総力を上げた抵抗の中心になりうるものとされていた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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