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ジーン・クルーパ
Gene Krupa
1946年6月、ニューヨークにて
基本情報
出生名Eugene Bertram Krupa
生誕1909年1月15日
出身地 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没 (1973-10-16) 1973年10月16日(64歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク
ジャンルジャズ
スウィング・ジャズ
ディキシーランド・ジャズ
ビッグバンド
職業ドラマー、作曲家、バンドリーダー
担当楽器ドラムス
活動期間1927年 - 1973年
レーベルRCAビクター
コロムビア
クレフ
ヴァーヴ
著名使用楽器
スリンガーランド
ジルジャン
ジーン・クルーパ(Gene Krupa、本名:Eugene Bertram Krupa、1909年1月15日 - 1973年10月16日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ドラマー。
スウィング期を代表する名ドラマーであり、それまで伴奏楽器とみなされていたドラムスにスター性をもたらした、ジャズ・ドラム史における最も偉大なドラマーのひとり。その影響はジャズ界だけにとどまらず、リンゴ・スター、ザ・ベンチャーズのメル・テイラー、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナム、カーマイン・アピス、キッスのピーター・クリスといったロック・ドラミングのパイオニアたちが、クルーパを憧れの対象とした。 1909年1月15日、クルーパはイリノイ州シカゴに9人きょうだい(2人の姉、6人の兄)の末っ子として生まれた。父親はポーランドからの移民、母親もポーランド移民の子孫だった。幼少からサックスや打楽器などに親しみ、先輩のデイブ・タフに連れられてルイ・アームストロング楽団のドラマー、ベイビー・ドッズ、ズティ・シングルトン
来歴
生い立ち・デビュー
1927年の初め、クラリネット奏者のメズ・メズロウ(英語版)に彼の楽団への参加を請われて、メジャー活動を開始する。1929年から1930年にかけて、エディ・コンドンのバンドや、「レッド・ニコルズ(英語版)・アンド・ヒズ・ファイヴ・ペニーズ」といったディキシー・スタイルのバンドを中心に活動の幅を広げ、次第にその実力を知られるようになる。 1934年12月、かねて交流のあった、同じシカゴ出身のベニー・グッドマンに誘われ、ベニー・グッドマン楽団に参加。1935年、ジャズ史では伝説として語られる、ロサンゼルスのパロマー・ボールルームでの演奏では、ベニー・グッドマン楽団としての大成功はもとより、エキサイティングなクルーパのドラミングが注目され、一躍スター・ドラマーとなる。 クルーパは同楽団で数々の名演を残すが、中でも「シング・シング・シング」でのプリミティブでアフリカ的な激しいドラム・ソロ(独奏)は、クルーパの代名詞ともいえる演奏であり、ジャズにおけるこれまでのドラムの位置づけをくつがえす一大センセーショナルを巻き起こした。そして、それまでサイド楽器としての扱いに過ぎなかったドラムを、フロントマン的なスター楽器として確立させた。 クルーパはルックスもよかったことから、アイドル的な人気を博し、映画などにも出演した。 1938年には、自身のリーダー・バンド「ジーン・クルーパ楽団」を結成し、若き才能の発掘に務めた(後述)。 1943年、クルーパは大麻所持の疑いをかけられて投獄され、楽団解散の憂き目に遭う。彼の失態を聞きつけた元妻(1941年離婚)のエセルは、かつてクルーパが支払った慰謝料10万ドルの小切手をそっくりそのまま彼に手渡し、復縁した。同年、グッドマン楽団に再参加し、1943年-1944年にはトミー・ドーシー楽団に参加。1944年から1951年にかけ、再び自身のバンドを率いたが、商業的にはかつての勢いを取り戻すことは難しくなった。 楽団のメンバーであったバディ・デフランコはのちに、「彼は非常に冷静かつ人間的にもいい人だったので、事件(冤罪)はとても悲しいことであった」と語っている。激しい競争音楽社会において、濡れ衣を着せることによる蹴落としはクルーパのみならず多く、同楽団から独立したアニタ・オデイもはめられたと語っている(もっとも彼女は薬はやっていたと自身で語っている)。 第二次世界大戦後はRCAにビッグバンド編成での録音を残したが、すぐに小編成(コンボ)での活動を再開した。 1950年代後半、クルーパは、レギュラーでのライブ・ツアーのかたわら、ラヴェル、リムスキー=コルサコフ、エドワード・マクダウェル、ベートーヴェンなどのクラシック音楽のスコアに取り組んだ。レコーディングを行ったが、発売にはいたらなかった。この頃のクルーパは、友人レナード・バーンスタインと「ジャズは交響曲に影響を与えたか?」というテーマの対談を行い、クルーパは「決して影響は与えていない」とした一方、バーンスタインは「確かに影響を与えている」と語った。 後年、クルーパは心臓病を患ったことで激しいプレイができなくなり、演奏活動を縮小する。病気と戦いながら、テレビ出演、ドラム・バトル企画などをなんとかこなした。1972年に行われたルイ・アームストロング追悼コンサートでは「オリジナル・ベニー・グッドマン・カルテット(実際はジョージ・デュヴィヴィエが加わってのクインテット)」として恩師グッドマンとの再演を果たし、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、デイヴ・ブルーベックなど大物が居並ぶ中、その日の出演者唯一のスタンディングオベーションを沸き起こした。
ベニー・グッドマン楽団
独立、その後の苦境
クラシック音楽への挑戦・晩年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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