ジン・キニスキー
1966年
プロフィール
リングネームジン・キニスキー
ジン・ケリー
ビッグ・サンダー
本名ユージン・ニコラス・キニスキー
ニックネーム荒法師
身長193cm
体重125kg(全盛時)
誕生日 (1928-11-23) 1928年11月23日
死亡日 (2010-04-14) 2010年4月14日(81歳没)
出身地 カナダ
アルバータ州エドモントン
スポーツ歴アメリカンフットボール
トレーナードリー・ファンク・シニア
スチュ・ハート
デビュー1952年2月13日
引退1992年2月25日
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ジン・キニスキー(Gene Kiniski、本名:Eugene Nicholas Kiniski、1928年11月23日 - 2010年4月14日)は、カナダのプロレスラー。アルバータ州エドモントン出身。ポーランド系カナダ人。
第3代AWA世界ヘビー級王者、第45代NWA世界ヘビー級王者。日本では「荒法師」の異名で呼ばれ、ジャイアント馬場と名勝負を繰り広げた[1]。 アリゾナ大学在籍時からアメリカンフットボール選手として名を馳せ、卒業後はCFLのエドモントン・エスキモーズに在籍しつつ[2]、カルガリーでスチュ・ハートのコーチを受け1952年からプロレスラーとしても活動を開始[1]。1954年よりプロレスに専念するようになる[1]。以降、北米の主要テリトリーをヒールのポジションで転戦、キラー・コワルスキーやジョニー・バレンタインと並んで「ポーランド系の三凶鬼」として畏怖された。 本拠地のカナダでは1957年5月2日、トロントにてパット・オコーナーから英連邦カナダ版のNWA大英帝国ヘビー級王座を奪取[3]。6月12日にはモントリオールにてエドワード・カーペンティアを下し、同地区認定の世界ヘビー級王座を獲得[4]。タッグでは10月31日にトロントにてフリッツ・フォン・エリックと組み、オコーナー&ホイッパー・ビリー・ワトソンからNWAカナディアン・オープン・タッグ王座を奪取した[5]。 1960年よりAWA圏に参戦し、12月6日にウイルバー・スナイダーからUSヘビー級王座を奪取[6]。翌1961年7月7日、セントポールにてバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第3代王者となる[7]。1965年8月21日にはインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザーを下し、WWA世界ヘビー級王座も獲得した[8]。この間、1964年4月には日本プロレスのワールドリーグ戦に初来日、豊登と決勝戦を争ったほか、カリプス・ハリケーンと組んで5月14日に豊登&吉村道明からアジアタッグ王座を奪取[9]。2週間後に豊登&ジャイアント馬場に奪回されるが、これが馬場にとって国内初タイトルとなった[1]。 1964年10月からはWWWFにも参戦しており、11月16日と12月14日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦[10]。翌1965年2月4日にはワシントンDCにてワルドー・フォン・エリックをパートナーに、ジェリー・グラハム&ルーク・グラハムからUSタッグ王座を奪取、4月8日にゴリラ・モンスーン&ビル・ワットに敗れるまで戴冠した[11]。 1966年1月7日、セントルイスのキール・オーディトリアムにてルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得、第45代王者となる[12]。団体として全盛期にあった時代のAWAとNWAの両世界ヘビー級王座を獲得したのは類例のない記録である。1967年8月にはNWA世界王者として日本プロレスに再来日、防衛戦は行われなかったものの、8月14日に大阪球場にて馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦、双方65分間闘い抜き(試合時間60分と延長戦5分)[13]、馬場が後年自身のベストマッチに選ぶほどの名勝負となった[1]。 1969年2月11日、ドリー・ファンク・ジュニアに敗れてNWA世界王座から陥落するも、8日後の2月19日にはハワイでトール・タナカから北米ヘビー級王座を奪取するなど[14]、その後も第一線で活躍。1970年12月3日には大阪府立体育館にて馬場を破り、第6代インターナショナル・ヘビー級王者となっている[15]。
来歴