ジル・ド・レ
Gilles de Rais
ジル・ド・レ
個人情報
生誕1405年 (およそ) シャントセ(現シャントセ=シュル=ロワール)
フランス王国
死没1440年10月26日(1440-10-26)
フランス王国
死因絞首刑
殺人
犠牲者数不明
犯行期間1431年頃?1440年9月15日
国 フランス王国
逮捕日1440年9月15日
司法上処分
刑罰死刑
有罪判決殺人罪
判決死刑
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居城の1つティフォージュ城
ジル・ド・レ(Gilles de Rais, 1405年 頃 およそ - 1440年10月26日、ジル・ド・レーとも)は、百年戦争期フランスの貴族・軍人。ブルターニュ地方ナントの貴族、レ(Rais、地名)男爵。フランス元帥。ギー2世・ド・ラヴァル(フランス語版)(ギー・ド・レ)とマリー・ド・クランの息子で父方の祖父はギー・ド・ラヴァル、母方の祖父はジャン・ド・クラン、曾祖父はピエール・ド・クラン。フランス王国軍司令官ベルトラン・デュ・ゲクランの曾姪孫に当たる。
レは所領の名前で、本名はジル・ド・モンモランシー=ラヴァル(Gilles de Montmorency-Laval)である。 ジル・ド・レは1405年頃、シャントセ(現シャントセ=シュル=ロワール)の城で生まれた。父の家系はブルターニュ地方に根を張る貴族であると同時に、代々アンジュー領主に仕える家柄でもある。また父は遠縁のレ家の養子に入り、姓をラヴァルからレに改姓して所領を拡大した。母の実家もブルターニュ・アンジューとの関係が深く、ジルはこの2つの家系が合体して出来た、ロワール川とその支流のセーヴル・ナンテーズ川双方に跨る広い領土を受け継ぐことになるのである。 しかし、母のクラン家には問題人物が多い。筆頭がジルの曾祖父に当たるピエール・ド・クランで、アンジュー公ルイ1世の家臣であるにもかかわらず、主君がイタリア遠征に出陣するとその軍資金を横領したり、1392年にブルターニュ公ジャン4世に唆されフランス大元帥オリヴィエ・ド・クリッソンの暗殺未遂事件を起こすなど筋金入りの悪党だった。息子でジルの祖父ジャン・ド・クランはギー2世・ド・ラヴァルと養家とのトラブルで仲裁に乗り出し、解決の見返りに娘マリー・ド・クランをギー2世に嫁がせ、2人の間に生まれたジルが領地を全て相続出来るように取り計らった。やがて祖父も悪行を重ね、強引で手段を選ばない領土拡大策を繰り返すことになり、それはジルにも大きな影響を与えていった[1]。 ジルは父がつけた家庭教師の下で順調に育つが、1415年初め、11歳の時に母が死去。同年9月28日、父も狩猟中に事故死して環境が一変。幼くして両親を失い、父の遺言で禁じられていたにもかかわらず、弟ルネともども祖父に引き取られた。後見人となった祖父からは溺愛され甘やかされて育ったといわれ、家庭教師をつけられず、父の遺言にあった教育方針は祖父に無視され、放任されたといわれる。後にジルも裁判の証言で祖父の放任主義を認めている[2]。 祖父は領地を広げるためジルを政略結婚の手駒に使い、1417年と1419年に2度婚約、1度目のジャンヌ・ペインル(1413-1457, フルク6世・ペインル(1413没)の娘)[3][4]との婚約は高等法院に認められず、2度目のベアトリス・ド・ロアン(ロアン子爵アラン9世とマルグリット・ド・ブルターニュ(ブルターニュ公ジャン4世の娘)の娘)との婚約は婚約者の死亡で挫折するが、1420年11月22日にジルを近隣の領主の息女カトリーヌ・ド・トアールと無理やり結婚させた。両家が遠縁にある(共通の高祖父アモーリ3世・ド・クランを持ち教会法の親等計算では4親等
経歴
若年期
ジルも祖父のこうした行いを学び、1423年には姑ベアトリスを誘拐してセーヴル・ナンテーズ川上流のティフォージュ・プゾージュの割譲を要求、ベアトリスが拒否すると兵を差し向け占領する、王国から事実確認の官僚が派遣されても追い返すなどの悪行を重ねている[5]。 成長し軍人となると、1424年に宮廷入りを果たした。これは祖父のコネがあり、ブルターニュとフランスを結び付けようと奔走するフランス王シャルル7世の姑ヨランド・ダラゴンに協力した祖父の意向が働き、1425年にジャン5世がシャルル7世と同盟を結び、1427年に祖父はヨランドの長男のアンジュー公ルイ3世の副司令官に任命、ジルも遠縁でシャルル7世の側近ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユに重用され、アンジュー軍を動員出来る立場に出世、同年に初陣を飾った[6]。
活躍