ジル・エルブグレン
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ジル・エルブグレン

Gil Elvgrenen
1950年に発表された『Jill Needs Jack』という絵画の制作風景(モデル:マーナ・ハンセン
本名Gillette Elvgren
誕生日1914年3月15日
出生地ミネソタ州セントポール
死没年1980年2月29日
国籍 アメリカ合衆国
芸術分野洋画(ピンナップ、広告)
教育ミネソタ州、イリノイ州
出身校Minneapolis Institute of Art, American Academy of Art
ウェブサイト ⇒http://www.gilelvgren.com
影響を受けた
芸術家Charles Dana Gibson, Andrew Loomis, Howard Chandler Christy
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ジル・エルブグレン(Gil Elvgren、1914年3月15日-1980年2月29日)は、アメリカ合衆国の画家。ピンナップや広告、イラストレーションの分野で活動。販促品の会社「Brown & Bigelow」のピンナップでよく知られる。American Academy of Art出身[1]。Charles Dana Gibson、アンドリュー・ルーミス、Howard Chandler Christyといったイラストレーターに強く影響を受けている。その他、ブランデーワイン派ハワード・パイルと弟子たち)のイラストレーターたちの影響もある[2]
経歴

1914年3月15日、Alex & Goldie Elvgrenのもと、ミネソタ州セントポールに生まれる。出生名Gillette A. Elvgren。父はスウェーデン移民で、塗装業を営んでいた。幼少期より絵画、木彫り、模型飛行機を通して芸術の才能を発揮。浴室で石鹸を彫刻したこともある[3]

1932年、ハイスクール卒業。ミネソタ大学入学(建築学専攻)。ミネソタ州ミネアポリスミネアポリス美術館(Minneapolis Institute of Art)で美術の勉強を始める。絵画への情熱と高校時代の恋人Janet Cecilia Cumminsへの愛をあきらめきれず、ジャネットの父(セントポールの著名な弁護士)の反対もあって1933年、イリノイ州シカゴに駆け落ち[4]

シカゴに移り、1936年、American Academy of Art卒業[5]。ここではBill Mosbyのもと学ぶが、後に友人・そして同業者となるアーティストたちと出会う(Thornton Utz, Coby Whitmore, Andrew Loomis, Bob Skemp, Al Buell, Edwin Henry, Harry Anderson)[6]

卒業後セントポールに戻り、最初のスタジオを開設。Brown & Bigelowのためにディオンヌ家の五つ子姉妹の絵を描く。大成功を収める。2度目の大きなブレイクはLouis F. Dowのカレンダー[7]と活動写真(mutoscope)のピンナップの成功である(1937年)[4]。出版社Louis F. Dowのために28×22インチのカンバスに60枚の作品を残した。この時期の作品は印刷されたサイン(signature)により識別できる[6]

1939年ころ、再びシカゴに居を構える。Stevens/Grossのスタジオに加わる。The Coca-Cola Company(コカ・コーラ社)のために最初の作品を制作。これは彼にとって、コカ・コーラ社にとって、アメリカ広告アートの歴史にとって重大な意味を持つ[8]

1940年、モデル直接ではなく写真を見てピンナップなどを制作する手法を採用(モデルにはピンナップと同じポーズをとってもらい撮影)[3]。なお、完成した絵画と写真ではモデルの体形などが異なる場合もあったが、これは彼の裁量で理想化された女性像を表現したものである[9]

第二次世界大戦開戦前、American Academy of Artでいくつかの授業を受け持つ[4]。大戦中、多くの彼の作品が飛行機のノーズアートに採用された[10][11]また、ベティ・グレイブルのピンナップがGIの間で人気を博し、彼らのロッカールームに多く貼られた[9]ノーズアート

1941年から1956年までイリノイ州クック郡ウィネッカに暮らす。初め借家を借りるが、後にラッセル・S・ウォルコットが1920年に設計した家を購入。屋根裏部屋を改装したスタジオで制作に励む[12]

1944年、カレンダーや宣伝グッズの会社Brown & Bigelowと契約を結ぶ。1945年から1972年までBrown & Bigelowと関係を持った[6]。主としてカレンダーのために1枚当たり1000ドルで年間24枚のピンナップを制作するが、これによって「アメリカで最も高給取りのイラストレーターの一人」となる(伝記作家のチャールズ・マルティネットによる)[12]。この間、30×24インチのカンバスを使用するが、その後30年間使い続ける。また、筆記体でサインを行う(晩年まで)[6]。また、1945年から約10年間、カレンダー会社Joseph C. Hoover and Sonsと契約[4]

1951年ウィネッカに写真スタジオを開設、撮影助手を雇う[13]。彼のクライアントはBrown & Bigelowとザ コカ・コーラ カンパニーから、いまやゼネラル・エレクトリックSealy Corporationオバルチンにまで広がっていた[7][14]

1940年代から1950年代にかけて、雑誌のイラストも手掛ける(サタデー・イブニング・ポスト, Good Housekeepingなど)[15]

1956年フロリダ州サラソータに移る[12]

1966年、妻ジャネット(彼のモデルを務めたことがある[9])、がんにより死去[3]。後にMarjorie Shuttleworth(彼のモデルを務めたことがある)と再婚[16]

1970年代、雑誌の広告がカラー写真を採用するようになるとピンナップの流行は下火になり、仕事の依頼も減少した。1980年、死去。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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