ジルマ・ヴァナ・ルセフ
Dilma Vana Rousseff
2011年1月
ブラジル連邦共和国
第36代 大統領
任期2011年1月1日 – 2016年8月31日(弾劾裁判により罷免)
副大統領ミシェル・テメル
出生 (1947-12-14) 1947年12月14日(76歳)
ミナスジェライス州・ベロオリゾンテ
政党労働者党
署名
ジルマ・ヴァナ・ルセフ(葡: Dilma Vana Rousseff、1947年12月14日 - )は、ブラジルのエコノミスト及び政治家。第36代ブラジル連邦共和国大統領。ブラジル史上初めての女性大統領であった[1]。 姓のRousseffはブルガリア人の父がブルガリア姓のRussevをフランス語風にしたもの。ポルトガル語を母語とする大多数のブラジル人にとっては読みにくい綴りで、国民にはファーストネームでジルマ大統領と呼ばれることが多い[2]。 ミナスジェライス州の州都・ベロオリゾンテ出身。ブルガリア人の父親とブラジル人の母親の間に生まれる。 1960年代の軍事政権時代において非合法左翼ゲリラ組織の武力闘争に参加、秘密警察に拘禁された経験もある。1967年9月、同じゲリラ組織で活動していたジャーナリストと結婚するも、70年代末に離婚した。その後、政治活動家の男性と再婚するも2000年に離婚している。 1979年の政党改革法制定で政党結成が自由化されるとブラジル労働党
名
来歴
学歴
リオグランデ・ド・スル連邦大学(英語版
カンピーナス州立大学(サンパウロ州)経済学部修士課程単位取得(中退)
カンピーナス州立大学経済学部博士課程単位取得(中退)
主要職歴
1986年?1988年:ポルトアレグレ市(リオグランデ・ド・スル州都)財務局長
1991年?1993年:“リオグランデ・ド・スル州経済・統計財団”総裁
1993年?1994年:リオグランデ・ド・スル州鉱山・エネルギー・通信長官
1999年?2002年:リオグランデ・ド・スル州鉱山・エネルギー・通信長官
2003年?2005年:鉱山エネルギー大臣
2005年?2010年3月:大統領首席補佐官
2011年1月?2016年8月:ブラジル連邦共和国大統領
2016年5月?:弾劾裁判開始により180日間の職務停止
2016年8月31日:ブラジル上院による罷免投票の結果、賛成61に対し反対20により大統領職から罷免された
人物
ルーラ政権下で鉱業エネルギー相、官房長官を務めた。大統領の右腕的存在としても知られ、PAC(経済成長加速計画)
(英語版)の推進役として活動、ルーラ大統領からは「PACの母親」と呼ばれた。2010年に大統領選挙に出馬し、ジョゼ・セラ(英語版)を決選投票で下して当選[3]。2011年1月1日に就任し、ブラジル史上初の女性大統領となった。就任式にはアメリカのヒラリー・クリントン国務長官や日本の麻生太郎元内閣総理大臣らが出席している。
2013年にはブラジル抗議運動が起き、切っ掛けは交通機関の運賃値上げであったがやがては教育、医療などの社会福祉に優先してFIFAワールドカップブラジル大会に巨額の投資を行ったことに対する抗議に発展し、ルセフ大統領はこの対応に追われた。その後も継続的にルセフ政権に対する批判が続出し、2014年に入って支持率は3割台にまで落ち込んだ。
ようやく大きな批判もありつつ国の威信をかけて臨んだサッカーのワールドカップ本選において、母国ブラジル代表が順調に決勝トーナメントまで勝ち上がると批判は沈静化し、逆に支持率上昇に繋がった[4]。
ブラジル代表は優勝候補の一角として同大会の決勝トーナメントベスト4まで勝ち進み、このまま行けば大会の成功によりルセフ大統領の支持率も回復が進み、10月の大統領選再選の弾みになると地元各紙も報道した。ところが、7月9日にベロオリゾンテのミネイロン・スタジアムで行われたドイツとの準決勝にてブラジルは7点を失い1点を返すのが精一杯であったほどの歴史的大敗を喫し、母国開催優勝の可能性は潰えた(ミネイロンの惨劇)。やり場のないブラジル国民の怒りは沈静化していた大会開催そのものへの批判やルセフ大統領自身への批判を再燃させることに繋がり、一夜にして状況は一転した[5]。
2014年の大統領選挙ではブラジル経済の低迷によって苦戦を強いられたが[6]、中道右派の野党・ブラジル社会民主党(PSDB)のアエシオ・ネベス(英語版)候補との決選投票を51.52%という僅差で制し再選された[7]。