ジルベルト・ジル
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ジルベルト・ジル
ジルベルト・ジル(2012年)
基本情報
出生名Gilberto Passos Gil Moreira
生誕 (1942-06-26) 1942年6月26日(81歳)
出身地 ブラジル バイーア州サルヴァドール
学歴バイーア連邦大学
ジャンルMPB
職業シンガーソングライターギタリスト閣僚
担当楽器ギタードラムスアコーディオントランペット
共同作業者カエターノ・ヴェローゾ
ムタンチス
公式サイト ⇒www.GilbertoGil.com.br
ジョアン・ジルベルトビートルズボブ・マーリー

ジルベルト・ジル(Gilberto Gil、1942年6月26日[1] - )は、ブラジルミュージシャン政治家

音楽活動では、カエターノ・ヴェローゾと共に、トロピカリア(トロピカリズモ)というムーヴメントを牽引し、MPBの重要人物の一人として評価されている。ボサノヴァに影響を受けて音楽活動を開始したが、その後ロックソウルレゲエ、アフリカ音楽等、様々なジャンルの音楽を吸収していった。

政治家としては、1988年よりサルヴァドールの市議会議員を務め、2003年から2008年にかけて、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ政権においてブラジルの文化大臣を務めたことで知られる。
来歴
デビュー前

バイーア州サルヴァドールアフリカ系ブラジル人の家庭に生まれた。父は医師。ジルベルトは1970年代以降、自身がアフリカ系であることを強く意識した活動を行うようになる[2]。父の仕事の関係で、幼少期をバイーア州の農村で過ごし、1950年頃、サルヴァドールにある親戚の家に移る。この頃にアコーディオンを始め[3]、その後作曲も行うようになる。

ジルベルトはバイーア連邦大学に進学し、経営学を学ぶ。当時、後にトロピカリア運動を共に牽引する盟友となるカエターノ・ヴェローゾも同じ大学の哲学科で学んでいた[4]。この頃ラジオでジョアン・ジルベルトを聴いて衝撃を受けたジルベルトは、ギターを買ってボサノヴァを歌うようになる[3]。在学中にはコマーシャルソングの制作等も行った。

1965年、石けん製造会社への就職を機にサンパウロに移る。翌年、エリス・レジーナに依頼され、エリスのテレビ番組のために作曲を行い、ジルベルトがエリスに提供した楽曲「Louvacao」がヒット[3]。ジルベルト自身も、デビュー・アルバムで同曲をセルフ・カヴァーしている。そして、ジルベルトは会社を辞め、音楽に専念していく。
1967年 - 1969年

1967年、デビュー・アルバム『Louvacao』発表。そして、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に衝撃を受け、ムタンチスナラ・レオンガル・コスタ等も加えて、トロピカリアというムーヴメントを代表するコラボレーション・アルバム『Tropicalia ou Panis et Circenses』(1968年)を発表。同作は、ブラジル初のコンセプト・アルバムとして評価されている[2]。特にムタンチスとは自身のセカンド・アルバム『Gilberto Gil (Frevo Rasgado)』(1968年)でも共演した。

しかし、ジルベルトの先進的な音楽は、時に論争の的となった。1968年、ブラジルの歌謡祭の予選でソウルミュージックからの影響を反映した「Questao de Ordem」を歌った際、学生達からブーイングが起こり、ジルベルトは落選。トロピカリアに好意的だった新聞記者のネルソン・モッタでさえ、10月14日付のウルチマ・オーラ(Ultima Hora)紙で、この時のパフォーマンスを批判。一方、10月24日付のコヘイオ・ダ・マニャン(Correio da Manha)紙では、好意的なコメントが寄せられた[2]。更に、当時の軍事政権から危険人物とみなされ、1968年12月27日、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、理由も明らかにされないまま逮捕された[2]。2人は、1969年7月20日から21日にかけて共演ライヴを行い(この時の模様は、1972年にライヴ・アルバム『Barra 69 - Caetano e Gil Ao Vivo na Bahia』として発表される)、間もなくロンドン亡命した。
1970年代 - 1990年代

1970年ワイト島音楽祭に出演[5]。亡命先のロンドンで制作したアルバム『Gilberto Gil (Nega)』(1971年)では、英語詞の楽曲が披露され、ブラインド・フェイスのカヴァー「Can't Find My Way Home」等を収録。この頃、ジルベルトはレゲエに傾倒していく[2]

1972年1月、ブラジルに帰国。同年発表のアルバム『Expresso 2222(英語版)』からは、「Back in Bahia」や「Oriente」がシングル・ヒット。1975年のアルバム『Gil e Jorge』には、ジョルジ・ベンと共に行ったジャム・セッションが収録された。

1979年のアルバム『Realce』には、ボブ・マーリーの歌唱で知られる「ノー・ウーマン、ノー・クライ」をポルトガル語でカヴァーした「Nao Chore Mais」収録[6]。同曲はシングルとして大ヒットした。1980年ジミー・クリフと共にブラジル・ツアーを行う。1981年には、カエターノ・ヴェローゾマリア・ベターニアと共に、ジョアン・ジルベルトのアルバム『Brasil』(邦題:海の奇蹟)にゲスト参加。


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