ジョー山中
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年8月)

ジョー山中

基本情報
別名城 アキラ
生誕1946年9月2日
出身地 日本 神奈川県横浜市
死没 (2011-08-07) 2011年8月7日(64歳没)
ジャンルロック
職業ミュージシャン俳優プロボクサー
担当楽器ボーカル
活動期間1966年 - 2011年
共同作業者4・9・1
フラワー・トラベリン・バンド
クニ河内
公式サイトジョー山中 オフィシャルウェブサイト

ジョー 山中(ジョー やまなか、1946年昭和21年〉9月2日 - 2011年平成23年〉8月7日[1])は、日本ミュージシャン俳優プロボクサー神奈川県横浜市出身。

本名は山中 明(やまなか あきら)。プロボクサー時代のリングネームは城 アキラ。芸名のジョーは親交のあった画家・城景都がロックバンド活動をしていた頃に、その名前を気に入り、自ら「城」と付けたことに由来。

3オクターヴの声の持ち主。ライブ活動を中心に、映画・テレビドラマへ出演するなど、幅広い活動を行っていた。
来歴

7人兄弟の中で唯一の混血児
として生まれる。父親を「本当の父親は顔も名前も知らない。日本に進駐していたアメリカ軍の兵隊だったらしい(中略)おふくろは一時、黒人兵と暮らす。それでお腹に宿したのが俺だ」と記述[2]、ソロ・アルバムの『W's』の中村俊夫のライナーノーツでも父親を「アフリカ系アメリカ人」としている。小学生時代に母を亡くした上、自宅が火災で全焼。結核で2年間入院した後、約16歳まで養護施設を転々として育つ。中卒後、自動車の修理工場に勤務。

1962年 - 腕っぷしの強さを聞きつけた金平正紀にスカウトされ上京し、金平ジムへ入門。リングネームは正紀による命名で城 アキラ[3][4]。プロデビューは17歳で、ジムの意向によりライト級からフェザー級に転向するも、無茶な減量が祟り体調を崩して入院し、東日本新人王の準決勝を棄権している。通算成績は4勝1敗1KO。

1963年 - 混血児をテーマにした映画『自動車泥棒』で安岡力也らと共演。

1966年 - GSグループ「4・9・1(フォー・ナイン・エース)」に城 アキラの芸名で加入、ボーカルを担当。翌67年シングル『星空を君へ』でデビュー(録音後加入のため、レコーディングは不参加)。68年脱退。

1968年 - 内田裕也の誘いに応じ、ロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」の結成にボーカルとして参加。

1970年アルバム『ANYWHERE』でデビュー。同年、クニ河内とフラワー・トラベリン・バンドのメンバーである石間秀樹とのコラボ作『切狂言』を「クニ河内とかれのともだち」名義で発表。

1971年、フラワー・トラベリン・バンドの2ndアルバム『SATORI』をアメリカカナダで同時発売、EL&Pとツアーするなど国際的に活躍。

1973年 - 4月の京都公演を最後にバンドは解散。以後はソロに転じ、翌年アルバム『Joe』をリリース。

1975年 - 8月、内田裕也が主催した「第1回ワールド・ロック・フェスティバル」に、フェリックス・パパラルディ(元マウンテン)のグループの一員として出演[5]、トリではジェフ・ベックとセッションも行った。


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