ジョー・リン・ターナー
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ジョー・リン・ターナー
2010年、スウェーデン公演
基本情報
出生名Joseph Arthur Mark Linquito
別名JLT
生誕 (1951-08-02) 1951年8月2日(72歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニュージャージー州ハッケンサック
ジャンルハードロック
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカル
活動期間1976年 - 現在
共同作業者ファンダンゴ
レインボー
イングヴェイ・マルムスティーンズ・ライジング・フォース
ディープ・パープル
サンストーム
公式サイト ⇒www.joelynnturner.com

ジョー・リン・ターナー(Joe Lynn Turner、1951年8月2日 - )は、アメリカ人の歌手。イングランドのハード・ロック・バンドであるレインボーディープ・パープルに在籍していたことで知られる[1]。1990年代半ばからソロ活動を追究する一方で、様々なグループに加わって作品を残してきた。
経歴

アメリカ合衆国ニュージャージー州ハッケンサックに住むイタリア系アメリカ人の家庭に生まれる。本名はジョゼフ・アーサー・マーク・リンキート(Joseph Arthur Mark Linquito)。

子供の時はアコーディオンを弾いていたが、やがて典型的なリズム&ブルースに興味を持つようになる。10代前半でギターを弾きこなすようになり、高校生の時にエズラというバンドを組み、オリジナルやカヴァーを演奏していた。彼に影響を与えたのは、レッド・ツェッペリンジミ・ヘンドリックスフリーなどだった[2]

1976年、ファンダンゴに参加。ファンダンゴはリズム&ブルース、ポップスカントリージャズ、メロディアスなロックをミックスしたと形容されたバンドで、彼は4作のアルバム全てでボーカルとギターを担当した。彼等はオールマン・ブラザーズ・バンド、マーシャル・タッカー・バンド、ザ・ビーチ・ボーイズビリー・ジョエルなど非常に多くのバンドやシンガーと一緒にツアーをし、ターナーはバンドの持つ全国的な影響力を初めて経験した。

ファンダンゴ解散後、リッチー・ブラックモアからの電話でレインボーのボーカリストのオーディションに招待され合格。グラハム・ボネットの後任として加入し、1984年の解散までにアルバム『アイ・サレンダー』『闇からの一撃』『ストリート・オヴ・ドリームズ』に参加した。彼が加入した当時、レインボーはヨーロッパと日本での人気が先行し、アメリカでの人気はいま一つだった。彼の加入後、ポップス志向がより強まってアメリカでの成功を一気に勝ち取った。上記3作のアルバムの収録曲の数曲は、1980年代初期から中期にかけてロック専用のラジオ局のチャートでトップ20に入った。「ストーン・コールド」は、トップ40入りしたレインボーの最初の曲で、プロモーション・ビデオはMTVでヘヴィー・ローテーションとして放送された。『ストリート・オヴ・ドリームズ』からは同名のシングルが発売された。

1985年クイーンカーズとの仕事で知られたロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースでソロ・アルバム『レスキュー・ユー』を発表。収録曲の殆どはフォリナーのアル・グリーンウッド(キーボード)との共作で、シングル「エンドレスリー」はラジオとMTVで頻繁に放送された。ナイト・レンジャーパット・ベネターとのツアーを行い、テレビ映画『ブルー・デ・ヴィユ』に出演[3]

1987年マイケル・ボルトンのアルバム『いざないの夜』(The Hunger)の収録曲「ホット・ラヴ」と「ジーナ」のバックコーラスに参加。

1988年イングヴェイ・マルムスティーンライジング・フォースに参加しアルバム『オデッセイ』を録音。アルバム発売後、短期間のツアーを行ない、レニングラードでのコンサートの音源を『トライアル・バイ・ファイアー:ライヴ・イン・レニングラード』(1989年)として発表。

1989年イアン・ギランの後任としてディープ・パープルに加入し、アルバム『スレイヴズ&マスターズ』(1990年)の制作に参加。同アルバムはビルボードで最高位第87位まで上がり、発売後の1991年に行なわれたツアーは来日公演を含めて比較的成功した。しかし次作の制作中、1992年後半に脱退[4]ジェフ・ワトソン(ギター)、ボブ・デイズリー(ベース)、カーマイン・アピス(ドラムス)とプログレッシブ・ロック・バンドであるマザーズ・アーミーを結成して、3枚のアルバムを制作[5]

主に1990年代半ばからソロ活動を行い、多くの成果を挙げた。

ブルガリア人ギタリストのニコロ・コッツェフ率いるフィンランドのロックバンドであるブレイズン・アボットとの共演、

ファンク・ロックのヒューズ・ターナー・プロジェクト名義でグレン・ヒューズとの共演。

ニコロ・コッツェフのロック・オペラ『ニコロ・コッツェフのノストラダムス』に参加。

2005年、ロシアのスタジオ・プロジェクト、マイケル・メン・プロジェクトのアルバム『メイド・イン・モスコウ』にヒューズとともに参加。

2006年、非常に音楽的に成功したアダルト・オリエンティド・ロックのスタジオ・プロジェクト「サンストーム」に参加し、ドイツのロック・バンド「ピンク・クリーム69」のデニス・ワード(ベース)と共演。

『ヴォイスイズ・オヴ・クラシック・ロック』のゲスト。

AC/DCブライアン・ジョンソン(ボーカル)と共に、クラシック・ロック・ケアズ・チャリティ・ツアー[注釈 1]で主演。

2006年8月4日、東京芸術劇場新日本フィルハーモニー交響楽団と共演してレインボーの楽曲を歌った。

2008年、元レインボーのトニー・カレイ(キーボード)、ボビー・ロンディネリ(ドラムス)、グレッグ・スミス(ベース)と共に、ブラックモアの息子ユルゲン(ギター)とトリビュートバンド「オーバー・ザ・レインボー」を結成。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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