ジョー・マッセリア
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ジョー・マッセリア
Joe Masseria
ジョー・マッセリア(NYPD) 
生誕Giuseppe Masseria
ジュゼッペ・マッセリア
1886年1月17日
イタリア王国シチリア州アグリジェント県メンフィ
死没1931年4月15日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
死因射殺
国籍 イタリア王国 アメリカ合衆国
別名Joe the boss
ジョー・ザ・ボス
職業マフィア
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ジョー・マッセリアことジュゼッペ・マッセリア(英語: Giuseppe "Joe" Masseria, 1886年1月17日 - 1931年4月15日)、通称ジョー・ザ・ボス(Joe the boss)は、アメリカコーサ・ノストラのボス。ニューヨークのリトルイタリーを拠点に各地のイタリア系ギャングを統合し、現ジェノヴェーゼ一家の母体を作った。
来歴
生い立ち

シチリア島南部メンフィに生まれ、幼い頃に西海岸マルサラに移った[1][2][3][4]。1903年一家で渡米し、ニューヨークのマンハッタンのスラム街に落ち着いた。ロウアー・イースト・サイドのフォーサイスストリート沿いに住んだ[5][6]。昼は服の仕立て屋で働き、夜は泥棒をしていた。1907年アパートに強盗で押し入り仲間リマと共に逮捕された(執行猶予)[5]

1913年4月、4人組で質屋に忍び込み、巡回中の警官に追いかけられて捕まった[注釈 1]。泥棒チーム「フォー・ウィー・アー(Four We Are)」を率い、バワリー周辺で何十件もの空き巣を繰り返していた。重窃盗で起訴され、翌年控訴したが4年刑で刑務所送りとなった[6][7][8]。この頃、すでに結婚して子供が3人おり、姉のサルーンに住み込んでバーテンをしていた[1][9]。家宅捜査で電気ドリルなどの泥棒道具が見つかった[5]

1916年頃出所し、リトルイタリーに戻るとマルベリーストリートとグランドストリートの角にビリヤード場を開き、独自のギャングを結成した。出所後住まいを転々としたが、イースト・ヴィレッジに落ち着いた[7]
カーブ・エクスチェンジ

禁酒法の成立を機に酒の密売に乗り出し、リトルイタリーのカーブ・エクスチェンジ(非合法酒交換所)[注釈 2]に出入りして酒のトレーダーになった。程なくブローカーに転身し、トレーダーから手数料を取って売買の仲介・運搬を始めた。武装ガードマン付きで取引の安全を保証したため、酒のハイジャックを恐れる密輸業者の需要を集め、商売は繁盛した(「ユニバーサルサービス」と呼ばれた)。護衛や見張り番に近所のイタリア系の若者を雇った。売り手・買い手双方からマージンを取るので収入が安定し、取引価格を操作できた。交換所オーナーのガエタノ・ペノキオ(トミー・ザ・ブル)[注釈 3]と結託し、サルーンの裏側に交換所を開いたが、警察の取締りを免れるため場所を毎日ずらした。警察は物証がないと捕まえられなかった。交換所の実権を握ったことで密輸ギャングの間で頭角を現した[1][6][10]
密輸抗争

1920年12月29日、密輸ライバル、サルヴァトーレ・マウーロと銃撃戦となり、硝煙が消えるとマウーロが死んでいた[1]。逮捕されたが正当防衛を主張した。マウーロの仲間ウンベルト・ヴァレンティと縄張り争いを続けた。当時、パレルモ系マフィアのサルヴァトーレ・ダキーラがコルレオーネ系のジュゼッペ・モレロ&テラノヴァ一家と抗争していた。マッセリアはダキーラに反旗を翻し、ダキーラから追われていたモレロと手を結んだ[注釈 4][注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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