ジョー・プライス
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ジョー・D・プライス (Joe D. Price、1929年10月20日 - 2023年4月13日)は、江戸時代日本絵画を対象にするアメリカ合衆国の美術蒐集家。財団心遠館館長。京都嵯峨芸術大学芸術研究科客員教授

1953年にニューヨークの古美術店で伊藤若冲『葡萄図』に出会って以来、日本語を解さないながら自らの審美眼を頼りに蒐集を続け、世界でも有数の日本絵画コレクションを築いた。収集した作品は伊藤若冲を中心に当時日本であまり人気のない作者のものが多かったが、次第に日本で逆輸入的に評価されていった。葛蛇玉のように、ほとんど無名だった者もある。

ロサンゼルス郊外に鑑賞室などを併設した豪邸を構える。全コレクション約600点のうち1980年以前に購入した約190点をロサンゼルス・カウンティ美術館(ロサンゼルス郡立美術館、en:Los Angeles County Museum of Art)の日本館 (en:Pavilion for Japanese Art) に寄託し[1][2]、残りの約400点を自宅の心遠館に所蔵していたが、それらのうち約190点が2019年出光美術館に売却されている[3]
経歴
少年時代

ジョー・プライスは1929年10月20日アメリカ合衆国オクラホマ州の農牧村バートルズビル (en:Bartlesville, Oklahoma) の溶接工ハロルド・チャールズ・プライスと妻メアリー・ルー・パターソン・プライスとの間に次男として生まれた。ただし、当時のトルズビルには満足な出産設備がなく、出生地は最寄りの都市タルサである。幼少時は父に厳格に育てられ、吃音を持っていたが、田舎のおおらかな気風のため、周囲との問題は生じなかったという。少年時には第二次世界大戦があり、日米も開戦したが、日本は何らかの感情を持つには遠すぎる国だったという。10代の時、母は乗用馬育成のため農場を購入し、高校時代はそこで野菜を栽培することを趣味とした。

戦後父が設立したH・C・プライス社がパイプラインの建造で急成長を遂げ、プライス家は莫大な資産を築いた。将来は兄ハロルド・プライス・ジュニアと共に会社を継ぐことが自然と決まっていた。
大学在籍時

兄は将来会社の経営を担うためオクラホマ大学経済学部で経営学を学んでおり、1947年、エンジニアになるためジョー・プライスは同大学工学部機械工学科に進んだ。

一年目は勉学に励み首席をとり、リンホフテヒニカを買い与えられた。しかし、二年目からは写真撮影に夢中になり、機械工学にも興味を失った。撮影した写真が同大学で建築学を教えていたブルース・ゴフ (Bruce Goff )の目に止まり、知り合った。四年次にはゴフの授業に招かれたフランク・ロイド・ライトとも知り合った。ライトは自然の美を建築によって引き出す有機的建築を旨とし、「Godを大文字で始めるように、Natureも大文字で始める」思想を標榜しており、プライスはライトからその自然観について多大な影響を受けた。

入学して一年目、父の会社で最初の仕事に従事し、カリフォルニア州ブライスリバーサイド間の砂漠に敷設されたパイプライン、ビッゲスト・インチ (The Biggest Inch) のストリンガビードをアイスピックと金鋸刃で清掃した[4]

1952年の卒業2ヶ月前、ブルース・ゴフが建築する計画だった礼拝堂が他者の手に渡ることになり、憤慨して実家に戻った。学長により卒業資格は与えられた。
若冲との出会い

卒業直前、父が本社ビルの建設を計画したため、建築家にフランク・ロイド・ライトを紹介し、プライス・タワー(Price Tower )の建築が計画された。卒業後、プライスは会社とライトの仲介役を務めることとなった。当時ライトはニューヨークグッゲンハイム美術館の設計のため同市プラザホテルに滞在しており、そのためプライスはニューヨークを頻繁に訪れた。

1953年、ライトを美術館からホテルに送り迎える途中、ライトに連れられマディソン街65丁目の東洋古美術商ジョセフ・瀬尾を訪れた。ライトは大正時代帝国ホテルを設計するなど日本と縁があり、浮世絵の蒐集家でもあった。プライスはそこで伊藤若冲による掛軸『葡萄図』に心を惹かれる。卒業祝いとしてメルセデス・ベンツ・300SLの購入資金を所持していた彼は、ホテルに行った後、店に戻り、作品の背景も知らないまま購入した。掛軸が絵画であるという認識すらなかったという。1950年代までに同店で狩野元信『老松小禽図・蝦蟇鉄拐図屏風』、鈴木其一『群舞図』、通女『見返り美人図』などを購入したが、作者や由来については全く関心がなかったという。

1960年代にはコレクションは30点程になった。カンザス大学の中国美術研究家清水義明がプライスの蒐集を聞きつけて訪問し、蒐集品が日本の江戸時代のものに偏っていることを告げられ、初めて作品の由来を意識するようになった。ゴフを尋ねると、大正時代の目録『御物若冲動植綵絵精影』を見せられた。若冲に興味を持ったプライスは、瀬尾商店で若冲の名を出すと、最初に購入した『葡萄図』が若冲の作品であることを知らされた。

1956年、自宅にの設計により、心遠館 (The House of the Far Away Heart) と称する自宅兼スタジオを構えた。若冲の堂号心遠堂より採ったもので、奇抜なデザインで話題になった。設計はライトの弟子ブルース・ガフで、プライスとは大学の同窓で、在籍時に学生部長を務めていた。
日本訪問

父の会社では、自らは現場責任者としてメリーランド州モンタナ州のミサイル基地とワシントンD.C.間のケーブルや、中東での石油パイプラインの敷設と世界を飛び回り、インドで黄疸に罹ったこともあった。


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