ジョー・トーリ
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ジョー・トーリ
Joe Torre
2015年のトーリ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ニューヨーク州ニューヨーク市
ブルックリン区
生年月日 (1940-07-18) 1940年7月18日(83歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
212 lb =約96.2 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手一塁手三塁手
プロ入り1960年
初出場1960年9月25日
最終出場1977年6月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ミルウォーキー・ブレーブス
アトランタ・ブレーブス
(1960 - 1968)

セントルイス・カージナルス (1969 - 1974)

ニューヨーク・メッツ (1975 - 1977)

監督歴


ニューヨーク・メッツ (1977 - 1981)

アトランタ・ブレーブス (1982 - 1984)

セントルイス・カージナルス (1990 - 1995)

ニューヨーク・ヤンキース (1996 - 2007)

ロサンゼルス・ドジャース (2008 - 2010)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2014年
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジョゼフ・ポール・トーリ(Joseph Paul Torre , 1940年7月18日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区出身の元プロ野球選手・監督。

兄のフランク・トーリも元メジャーリーガー。
経歴
選手時代

ニューヨーク州ブルックリンで生まれ育つ。1960年にアマチュアフリーエージェントでミルウォーキー・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)へ入団。同年9月25日にMLBデビューする。捕手であったが、一塁手も務めた。1963年から1967年まで5年連続でオールスターに選出され、1965年にはゴールドグラブ賞を受賞。

1969年の開幕前に元MVPオーランド・セペダと交換でセントルイス・カージナルスに移籍。カージナルス時代は名捕手ティム・マッカーバーとその後継者であるテッド・シモンズが在籍していたため、主に一塁手として活躍。1970年にはマッカーヴァーがフィラデルフィア・フィリーズトレードされたため捕手に戻るが、1971年にはシモンズの成長により、三塁手に転向する。

1971年に選手としての絶頂期を迎える。137打点打率.363を記録し、ナショナルリーグの二冠王に輝く。同年にはシーズン最多安打、最高塁打も記録し、最優秀選手に選出される。カージナルス時代の1970年から1973年まで4年連続でオールスター出場を果たす。1974年のシーズン後にニューヨーク・メッツにトレードされ、トレード後直ぐの日米野球で選手として来日(その後、2004年にMLB開幕戦で監督として再来日)した。1977年に現役を引退。選手生活18年間の通算成績は打率.297、252本塁打、1185打点、2342安打である。
監督就任?3度の解雇

1977年途中にメッツの監督に就任。就任した当初は選手兼任監督という立場で、たまに代打として出場することもあった。1981年のシーズン終了までメッツの監督を務めるが、プレーオフ出場は成らなかった。

1982年からはアトランタ・ブレーブスの監督に就任し、1年目にブレーブスにとって1969年以来の西部地区優勝を果たすが、2年目の1983年には地区2位、1984年には3位に陥落する。

1985年から数年間テレビ解説者として活躍した後、1990年にセントルイス・カージナルスの監督として現場復帰を果たす。しかしプレーオフ進出を果たすことなく、1995年のシーズン中に監督として3度目の解雇を経験する。
名将トーリドン・マッティングリーと会話中のトーリ(2007年)

1995年11月2日にニューヨーク・ヤンキースの監督に就任する。監督としてのキャリア初期のトーリの評価は決して高いものではなく、それを象徴する出来事としてニューヨーク・デイリーニューズはClueless Joe(訳の分かっていない、トンチンカンなジョー)とまで酷評した[1]。しかし翌1996年にヤンキースを18年ぶりにワールドシリーズに導き、さらに1998年から2000年にかけてワールドシリーズ3連覇を達成。長らく低迷していたヤンキースの復活を実現する。トーリが監督に就任した時のチームの顔は、横暴なオーナーであるジョージ・スタインブレナーだったが、トーリがその座に取って代わった[2]

2003年には読売ジャイアンツから松井秀喜が移籍し、日本でもよく知られる監督となる。

2007年6月7日のシカゴ・ホワイトソックス戦ではMLB史上10人目の監督通算2000勝を達成し、MLB史上初めて「選手として2000本安打、監督として2000勝」を達成した人物となった。なお、この記録は後にギネス世界記録に認定されている[3]

ヤンキース監督時代の12年間すべてでポストシーズン進出を果たした(地区優勝10回、ワイルドカード獲得2回)が、その最後の年となる2007年はディビジョンシリーズで敗退。同年オフ、球団は1年500万ドルにプレーオフで勝ち抜く度に100万ドルが加算され、ワールドシリーズへ進出すれば2009年は800万ドルで契約延長という条件を提示[4]。トーリはこの出来高を含む契約を「侮辱」と受け、契約を固辞[2]。10月18日にニューヨーク・ヤンキース監督を退任することを球団フロントに通知した[4]。これによってヤンキースは周囲から激しい批判を受けたが、その多くはファンからだった[2]。なお、ヤンキースの後任監督にはジョー・ジラルディが10月30日に就任した。
ドジャース監督就任

それから約半月後11月1日にロサンゼルス・ドジャースから監督オファーを受け、3年契約年俸総額1300万ドルで合意した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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