この項目では、バスケットボール選手について説明しています。その他の人物については「ジョー・ジョンソン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ジョー・ジョンソン
Joe Johnson
ワールドカップ予選でのジョンソン
(2022年)
フリーエージェント
ポジションSG / SF
基本情報
愛称Iso Joe
J.J.
Jo-Jo
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 (1981-06-29) 1981年6月29日(42歳)
出身地アーカンソー州リトルロック
身長201cm (6 ft 7 in)
体重109kg (240 lb)
ウィングスパン215cm (7 ft 1 in)
キャリア情報
高校リトルロック・セントラル高等学校
ジョー・マーカス・ジョンソン(Joe Marcus Johnson, 1981年6月29日 - )は、アメリカ合衆国・アーカンソー州リトルロック出身のプロバスケットボール選手。ポジションはスウィングマン。 リトルロックの高校を卒業した後、アーカンソー大学に進学。1年目の1999-2000シーズンから16.0得点5.7リバウンドを記録するエースとして活躍し、AP通信選出のサウスイースタン・カンファレンスの新人王などに選ばれた。大学では2シーズンのみプレイし、2001年のNBAドラフトにアーリーエントリーした。 ドラフトではボストン・セルティックスから全体10位で指名を受けた。ルーキーイヤーとなった2001-02シーズンは、38試合中33試合で先発したが、ジョンソンのプレイ時間はセルティックスが1995年以来のプレーオフを狙うにつれて減っていった。シーズン半ばの2002年2月20日、ジョンソンは他の選手と一緒にフェニックス・サンズのベテラン、ロドニー・ロジャース サンズではアンファニー・ハーダウェイと先発の座を争ったが、ハーダウェイは怪我がちなため、ジョンソンには30分以上の出場時間が与えられるようになり、自然と成績は向上した。ルーキーイヤーの成績は77試合のうち60試合に先発出場し、7.5得点3.3リバウンドの成績で、オールルーキーセカンドチームに選ばれた。ハーダウェイとの出場時間の奪い合いは翌2002-03シーズンまで続いたが、2003-04シーズン途中にはマイク・ダントーニがヘッドコーチに就任し、以降ジョンソンは不動の先発SGに定着し、成績は大幅な向上を見せた。このシーズンは平均16.7得点のアベレージを残したが、一方チームは不振に陥り、プレーオフ進出を逃した。 翌2004-05シーズン、サンズがスティーブ・ナッシュを獲得したことがジョンソンにとってもサンズにとっても大きな契機となった。ナッシュを中心にラン&ガンの攻撃的なチームに生まれ変わったサンズは、このシーズン大躍進を果たし、62勝20敗の好成績を残した。ジョンソンは平均得点こそ17.1得点と前シーズンと比べて大きな変化はなかったように見られるが、スリーポイントシュート成功率はそれまでのキャリア平均を大きく上回る47.8%を記録し、これはリーグ全体でも2位の記録だった。ジョンソンは一躍名シューターとしての地位を固めたのである。ジョンソンのスリーポイントシュートは、ロングシュートを多用するダントーニの戦術には欠かせない武器となり、チームの大躍進に大きな貢献をした。またオールスター前夜のNBAスリーポイント・シュートアウトにも出場を果たしている。プレーオフではカンファレンス準決勝ダラス・マーベリックス戦の第2戦で、ダンクシュートを決めた際に顔から落下し、左目下の骨を骨折。翌日手術を行いしばらく欠場を強いられたが、スパーズ戦の第3戦からフェイスマスク
経歴
カレッジ
ボストン・セルティックス
フェニックス・サンズ
ジョンソンにとってもチームにとっても最高のシーズンを過ごしたが、しかしオフにフリーエージェントとなったジョンソンはチームとの再契約交渉に折り合いがつかず、その後サイン・アンド・トレードでボリス・ディアウと将来のドラフト1位指名権との交換でアトランタ・ホークスに移籍することになった。
アトランタ・ホークスアトランタ・ホークスでのジョンソン
強力なシューターではあったがサンズではあくまでサポーティングキャストの一人であり、年俸200万ドル程度の選手に過ぎなかったジョンソンが、ホークスへの移籍でいきなり1000万ドルプレイヤーとなったことは当時話題となった。ジョンソンには低迷するホークスを立て直すエースとしての活躍が求められた。
ホークスに加入して1年目の2005-06シーズン、ジョンソンは1試合平均20.2得点6.5アシスト1.26スティール、3ポイント成功数128、出場時間40.7分などでチームトップとなった。彼は2005-06シーズンに20得点以上、6アシスト以上をあげた5人の1人となった。2月1日のシャーロット・ボブキャッツには15得点10リバウンド11アシストで自己初のトリプルダブルを記録した。3月7日のゴールデンステート・ウォリアーズ戦では自己最高の42得点、3月13日のミルウォーキー・バックス戦では自己最高の17アシストを記録した。その年夏に日本で行われた2006年バスケットボール世界選手権にはアメリカ代表として出場し、銅メダルを獲得した。
2006-07シーズンにはさらに飛躍を遂げて1試合平均25.0得点4.4アシスト4.2リバウンド1.05スティールを記録した。この彼の平均得点はガードとしてはアレン・アイバーソンに次ぐ数字でNBA全体でも9位だった。