ジョー・ジャクソン
Joe Jackson
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地サウスカロライナ州ピケンズ郡
生年月日1887年7月16日
没年月日 (1951-12-05) 1951年12月5日(64歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手
初出場1908年8月25日
最終出場1920年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
フィラデルフィア・アスレチックス (1908 - 1909)
クリーブランド・ナップス
クリーブランド・インディアンス (1910 - 1915)
シカゴ・ホワイトソックス (1915 - 1920)
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ジョー・ジャクソン(英語: Joe Jackson, 本名:ジョゼフ・ウォーカー・ジャクソン(Joseph Walker Jackson, 1887年7月16日 - 1951年12月5日[1])は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州ピケンズ郡出身のプロ野球選手(外野手)。愛称は"シューレス・ジョー"("Shoeless Joe")。
1919年のワールドシリーズで行われた八百長事件である『ブラックソックス事件』に関与したとして、翌1920年に永久追放処分を科された「アンラッキー・エイト (悲運の8人)」の1人である。 サウスカロライナ州ピケンズ郡にて父ジョージと母マーサの間に、8人兄妹の長男として生まれる。直後に同州グリーンビルに移り、父は繊維工場に勤務した。自身も幼い頃から工場で働いていたため学校に通ったことが無く読み書きが全くできなかったが、工場の野球チームでプレイすると次第に頭角を表し、州内で名の知れる存在になっていった[2]。 1908年にマイナーリーグベースボールのカロライナ・アソシエーション
経歴
プロ入り前
現役時代タイ・カッブ(左)と
1910年7月30日、7月23日に成立したトレードの後日発表選手としてナップスへ移籍[4]。9月にメジャーに昇格し、出場試合数は少ないながらも打率.387・5三塁打を記録。
1911年は中堅のレギュラーに定着。右翼に回った後半戦で打率.434を記録[5][6]し、リーグトップの出塁率.468、いずれもタイ・カッブに次ぐリーグ2位の打率.408・233安打・45二塁打・19三塁打・126得点・OPS1.058と才能が開花。.420を記録したカッブに阻まれ首位打者獲得はならなかったものの、24歳2ヶ月での打率4割達成は、1941年にテッド・ウィリアムズに更新されるまで最年少記録だった。MVPの投票では4位にランクインした[7]。
1912年は序盤やや低調だったが6月に打率.529、9・10月にも.495と打ちまくり[8]、惜しくも2年連続の4割には届かなかったがリーグ2位の打率.395、リーグトップの226安打(カッブと同数)・331塁打、リーグ新記録となる26三塁打を記録した。
1913年は5月に打率.505を記録[9]するなど前半戦で打率.404・15三塁打・出塁率.494[10]。8月初めまで4割を維持[11]したがその後は失速し、打率.373、いずれもリーグトップの197安打・39二塁打・長打率.551・OPS1.011の好成績を挙げ、MVPの投票ではウォルター・ジョンソンに次ぐ2位にランクインした[12]。
1914年初頭に新興のフェデラル・リーグからオファーを受けるが、断っている。同年は足の骨折もあってやや成績を落とし、チームも最下位に沈んだ[2]。ホワイトソックス時代
チーム名が「インディアンス」に変わった1915年8月21日、2選手プラス31,500ドル、更に後日発表の1選手と共にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍[4]。