ジョーン・ロビンソン
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ジョーン・G・ロビンソン」とは別人です。

ジョーン・ロビンソンポストケインジアン

生誕 (1903-10-31) 1903年10月31日
サリー
死没

1983年8月5日(1983-08-05)(79歳)
ケンブリッジ
国籍 イギリス
研究機関ケンブリッジ大学
研究分野貨幣経済学
不完全競争理論
経済成長理論
博士課程
指導教員ジョン・メイナード・ケインズ[1]
博士課程
指導学生アマルティア・セン[1]
影響を
受けた人物ジョン・メイナード・ケインズ
ピエロ・スラッファ
ミハウ・カレツキ
影響を
与えた人物アタナシオス・アシマコプロス
ニコラス・カルドア
Amit Bhaduri
Zenobia Knakiewicz
実績ケンブリッジ成長理論
Amoroso-Robinson relation
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ジョーン・ロビンソン(Joan Violet Robinson、1903年10月31日 - 1983年8月5日[2])は、イギリス経済学者。当時としては唯一、女性のノーベル経済学賞候補として何度も名前があげられたが、受賞することなく逝去した[3]。「ケインズサーカス」の一員であった。
生涯

陸軍将校で作家のフレデリック・モーリス(英語版)の娘として生まれる。夫のオースティン・ロビンソンも経済学者。

ピエロ・スラッファの影響を受けて、不完全競争の理論を確立した。また、1931年に結成されたケインズ・サーカスではその中心メンバーとして活躍。

その後、マルクス経済学も研究の対象とし、再生産表式から1933年ジョン・メイナード・ケインズに先立って有効需要の原理を発見したミハウ・カレツキの影響を強く受けている。マルクス理論を評価しながらも、その欠陥を多様な観点から指摘し、マルクス理論を「信仰」するマルクス主義に対しては厳しく批判している[4][5][6]。「#語録」も参照詳細は「マルクス主義批判」を参照

ケインズ一般理論発表後はケインズ理論の動学化を研究し、アメリカポール・サミュエルソンロバート・ソローらと論争を繰り広げた。また、カレツキをはじめとするマルクス経済学者のケインズ理論解釈に評価を与えた一方で、アメリカで主流となったIS-LM分析や新古典派理論に対する激しい批判者でもあった。アメリカで発展したサミュエルソン等いわゆる「ケインジアン」たちの理論が、政策上の利便性を求めて本来のケインズやサーカスの理論的前提条件を安易に曲げてしまったことで、かえって現実世界における理論的妥当性を失ってしまったことを激しく批判し、彼らを「似非ケインジアン」(Bastard Keynesian)と呼んだ[7]

晩年は毛沢東主義に傾倒し、共産党の指導下における中国の経済発展に希望を見ていた[8][9]
略歴

1903年
イングランドサリーで生まれた。

ロンドンのSt.Paul's Girls' Schoolに通う。

1921年 ケンブリッジ大学ガートン・カレッジに入学(途中で歴史から経済学に転じる)。

1925年 経済学のトライポス(優等卒業試験)を通り、卒業する。

1926年 ケンブリッジの経済学者オースティン・ロビンソンと結婚する。

彼の仕事の関係で2年半ほどインドに滞在する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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