ジョーン・クロフォード
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ジョーン・クロフォード
Joan Crawford
ジョージ・ハレルが1936年に撮影したクロフォードの宣材写真
本名Lucille Fay LeSueur
生年月日 (1904-03-23) 1904年3月23日
没年月日 (1977-05-10) 1977年5月10日(73歳没)
出生地 アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画
活動期間1923年 - 1974年
配偶者ダグラス・フェアバンクスJr.(1929年 - 1933年)
フランチョット・トーン(1935年 - 1939年)
フィリップ・テリー(1942年 - 1946年)
アルフレッド・スティール(1956年 - 1959年)
著名な家族クリスティーナ(養女)
クリストファー(養子)
シンシア(養女)
キャサリン(養女)
主な作品
グランド・ホテル』(1932年)
ミルドレッド・ピアース』(1945年)
大砂塵』(1954年)
何がジェーンに起ったか?』(1962年)

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1945年ミルドレッド・ピアース
AFI賞
AFIアメリカ映画100年シリーズ
1999年 女優部門第10位
ゴールデングローブ賞
セシル・B・デミル賞
1970年 生涯功労賞
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
1960年 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して

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ジョーン・クロフォードのサイン。

ジョーン・クロフォード(: Joan Crawford、1904年3月23日[注釈 2] - 1977年5月10日)はアメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。

ブロードウェイのコーラスガールとして舞台に出演するまでは、アメリカ各地を巡業する演劇一座のダンサーだった。1925年に映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)と映画出演の契約を結び、クロフォードの本格的な女優人生が始まっている。当初のクロフォードに割り当てられた役柄は端役で、つまらない役が多かったためにクロフォードは苛立ちをつのらせていたが、徐々に自身を売り込むことに成功し始め、1920年代の終わりには流行の最先端をいくフラッパーを代表する女優として世界的に有名になった。1930年代になると、クロフォードの人気は当時のMGMの看板スターであるノーマ・シアラーグレタ・ガルボと並び称されるようになった。クロフォードは、最終的に恋や成功を勝ち取る勤勉な若い女性を演じる機会が多かった。このような「シンデレラ・ストーリー」的な作品は、世界恐慌のさなかにあった当時の大衆、とくに女性層に大きく受け入れられた。クロフォードはハリウッドでももっとも有名な女優の一人となり、出演料も女優の中で最高額を受け取るまでになった。しかしながら徐々に作品の興行成績は落ち込みを見せはじめ、1930年代の終わりには出演料のわりに興行成績に貢献しない女優 (Box Office Poison) というレッテルをはられてしまう。しかしながら、女優としてのキャリアは1940年代前半から再び上昇し始めた。そして1945年に主演した『ミルドレッド・ピアース』で、クロフォードはアカデミー主演女優賞を獲得したのである。

1955年にクロフォードはペプシコ社の社長アルフレッド・スティールと4度目の結婚をし、社長夫人としてペプシコ社での実権を持つようになった。1959年に夫スティールが死去すると、クロフォードは取締役会から推挙されて、1973年まで役員としてペプシコ社に籍を置いていた。スティールとの結婚中もクロフォードは映画やテレビで女優を続けていたが、スティールとの死別後の1960年代は女優としての活動量はどんどん減っていった。そして1970年のイギリスのホラー映画『地底の原始人・キングゴリラ (Trog)』への出演を最後に、クロフォードは映画界から引退した。1974年に老いで衰えたクロフォードの容貌があからさまに写しだされた写真が公開されると、クロフォードは人前に出ることを完全に避けるようになり、1977年に死去するまで隠棲生活を送った。

クロフォードは4回にわたって結婚している。最初の3回は離婚で、最後に結婚したアルフレッド・スティールとは死別だった。クロフォードには5人の養子がいるが、そのうちの1人は生みの親のもとに戻っている。残った4人の養子のうち、年長のクリスティーナ (Christina Crawford)とクリストファーのクロフォードとの関係はとげとげしいものだった。クロフォードはこの二人の遺産相続権を剥奪し、クロフォードの死後にクリスティーナは暴露本『親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像 (Mommie Dearest)』を出版している。この本にはクロフォードが子供たちに対して肉体的、精神的に虐待を繰り返していたと断言されている。

クロフォードは、アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門で、第10位にランクされている。
前半生

クロフォードは、トーマス・E・ルスールとアンナ・ベル・ジョンソンの第3子として、テキサス州サンアントニオに生まれ、ルシール・フェイ・ルスール (Lucille Fay LeSueur) と名付けられた。父トーマスはフランスのユグノーの血を引くイギリス人で、クリーニング店で働いていた。母アンナはテキサス州生まれで、スウェーデンとアイルランドの血を引いていた。長姉デイジーはクロフォード誕生以前に死去しており、長兄のハル・ルスール (Hal LeSueur) は長じて俳優となっている。トーマスはクロフォードが生まれる数カ月前に家族を捨てて出て行ったが、62歳の1930年にテキサス州のアビリーンで建設作業員として働いていたことが分かっている[9]。その後アンナはヘンリー・J・カシンと結婚した。当時の国勢記録にはこの結婚がアンナの初婚であると記載されているため、トーマスとアンナは法的には結婚していなかった可能性がある[10]。一家はオクラホマ州ロートンに住んでおり、カシンはここでラムジー・オペラ・ハウスを経営していた。このオペラ・ハウスではさまざまな出し物が行われており、アンナ・パヴロワやエヴァ・タンガイ (Eva Tanguay) といった有名人が公演をすることもあった。幼いクロフォードはカシンをダディと呼んでおり、実の父親ではないことを兄のハルから教えられるまで知らなかったといわれている[11]。「ビリー (Billie)」 という愛称で呼ばれていたクロフォードは、義父のオペラ・ハウスで上演されるヴォードヴィルを観ることが好きな子供だった。オペラ・ハウスを経営していたとはいえ一家の暮らしは苦しく不安定なもので、クロフォードも小学校以降は正式な教育を受けることはできなかった[12]

クロフォードはダンサーになることが夢だったが、ある日クロフォードが友人と遊ぶためにピアノのレッスンをさぼろうとして家のベランダから飛降りたときに、牛乳瓶の破片で脚に深い傷を負ってしまった。クロフォードは3度の手術を受け、小学校にも18カ月にわたって通うことが出来なかった。幸いなことにこの怪我は完治し、クロフォードはダンサーになるという夢を捨てることはなかった。あるときカシンは使い込みの疑いで告訴され、最終的には無罪判決を受けたもののロートンには居られなくなり、一家は1916年ごろにミズーリ州カンザスシティへ引っ越している[10]。カシンの名前が最初に市の電話番号簿に記載されたのは1917年で、住所は東9番街403となっていた。クロフォードはカンザスシティのカトリック系の聖アグネス・アカデミーに入学した。後にアンナとカシンが離婚すると、クロフォードは勤労学生として学校に残った。その後、クロフォードはロッキンガム・アカデミーへ勤労学生として入学している。クロフォードは後年、この学校の校長夫人に叩かれたことと、料理、掃除などに追われていてほとんど勉強する暇がなかったと振り返っている。クロフォードはロッキンガム・アカデミー在学中に、最初の恋人であるトランペット奏者のレイ・スターリングと付き合っていた。スターリングはクロフォードに勉学に励むように諭していたといわれている[13]


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