ジャンヌ・ド・ナヴァール
ジョーン・オブ・ナヴァール
Jeanne de Navarre
Joan of Navarre
ブルターニュ公妃
イングランド王妃
ブルターニュ公未亡人ジャンヌと次男のアルテュール・ド・リッシュモン、アンリエット・ロリミエ(Henriette Lorimier)画、1806年
在位ブルターニュ公妃:
1386年10月2日 ? 1399年11月1日
イングランド王妃:
1403年2月7日 ? 1413年3月20日
戴冠式イングランド王妃:1403年2月26日
出生1370年?
ナバラ王国、パンプローナ
死去1437年6月10日
イングランド王国、ロンドン、ヘイヴァーリング=アット=バウワー
埋葬1437年8月11日
イングランド王国、カンタベリー大聖堂
配偶者ブルターニュ公ジャン4世
イングランド王ヘンリー4世
子女一覧参照
家名エヴルー家
父親ナバラ王カルロス(シャルル)2世
母親ジャンヌ・ド・ヴァロワ
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ジョーン・オブ・ナヴァール(Joan of Navarre, 1370年? - 1437年6月10日)は、イングランド国王ヘンリー4世の王妃。ナバラ国王カルロス(シャルル)2世と王妃フアナ(ジャンヌ、フランス王ジャン2世の娘)の娘。兄はカルロス(シャルル)3世、モルタン伯ピエール。フランス語名ジャンヌ・ド・ナヴァール(Jeanne de Navarre)。 ジョーンは最初1386年にブルターニュ公ジャン4世と結婚、9人の子女をもうけたが、1398年にヘンリー・オブ・ボリングブルック(後のヘンリー4世)がリチャード2世により追放され、ブルターニュに居を構えた時、当時公爵夫人だった彼女を見そめたという[1][2][3]。 翌1399年にボリングブルックはリチャード2世を廃位して国王ヘンリー4世に即位、同年にジャン4世が死去、未亡人となったジョーンは長男ジャン5世の摂政を務めていたが、3年後の1402年4月に代理人を通したヘンリー4世との再婚に応じた。1394年に最初の妻メアリー・ド・ブーンを亡くしたヘンリー4世は再婚を通してブルターニュの支配を目論んでいたが、ブルターニュから再婚に抗議が上がると、ジョーンは摂政の放棄を余儀無くされ、子供達も後見人のオリヴィエ・ド・クリッソンがブルターニュに留め置く方針に決めたため、ヘンリー4世の当ては外れた[4]。 1403年、亡夫との間に出来た子供らをブルターニュに残し、イングランドへ行き2月にウィンチェスター大聖堂で正式にヘンリー4世と再婚したが、彼との間に子は出来なかった[1]。しかし夫婦仲は良く、ヘンリー4世はジョーンへの歳出を増やし、ジョーンも王と先妻の子供達へ愛情を注いでいたという[3]。 1413年のヘンリー4世の没後、ジョーンの処遇は変わらず厚遇され、継子ヘンリー5世からは寡婦年金を支給され、実母同然に慕われていた。しかし1415年に百年戦争が再開されると、アジャンクールの戦いでフランス軍がイングランド軍に大敗、フランス側で参戦していた娘マリーの夫アランソン公ジャン1世が戦死、次男のアルテュール(後のアルテュール3世)が捕虜になりイングランドへ送還される不幸にも遭遇している[5]。 1419年になるとジョーンの処遇も大きく異なり、ヘンリー5世の弟・ベッドフォード公ジョンの命令により、妖術に凝って王の殺害を謀ったとして逮捕、財産を没収されイングランド南部ペヴンジーに幽閉された。後にヘンリー5世により釈放され、義理の孫ヘンリー6世も財産を返却したため、かつてと同じ待遇を取り戻して余生を送った。1437年に亡くなると、カンタベリー大聖堂に眠る夫のそばに埋葬された[1][6]。 最初の夫ジャン4世との間に9人の子女をもうけた。
生涯
子女
ジャンヌ(1387年 - 1388年)
次女(名前不明、1388年)
ジャン5世(1389年 - 1442年) - ブルターニュ公
マリー(1391年 - 1446年) - 1398年、アランソン公ジャン1世と結婚
マルグリット(1392年 - 1428年) - 1407年、ロアン子爵アラン9世
アルテュール3世(1393年 - 1458年) - ブルターニュ公
ジル(1394年 - 1412年) - シャントセ領主
リシャール(1394年 - 1438年) - エタンプ伯
ブランシュ(1397年 - 1416年頃) - 1407年、アルマニャック伯ジャン4世と結婚
脚注^ a b c 森、P198。
^ エチュヴェリー、P61。
^ a b 石井、P246。
^ エチュヴェリー、P61 - P62、ロイル、P100。