ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ
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Joseph Leo Mankiewicz
ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ

生年月日 (1909-02-11) 1909年2月11日
没年月日 (1993-02-05) 1993年2月5日(83歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ウィルクスバリ
死没地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ベッドフォード
職業映画監督映画プロデューサー脚本家
配偶者Elizabeth Young (1934?1937)
Rose Stradner (1939?1958)
Rosemary Matthews (1962)
著名な家族ハーマン・J・マンキーウィッツ(兄)
クリストファー・マンキーウィッツ(息子)
トム・マンキーウィッツ(息子)
フランシス・マンキーウィッツ(英語版)(又従兄弟の息子)
ドン・マンキーウィッツ(英語版)(甥、ハーマンの息子)
フランク・マンキーウィッツ(英語版)(甥、ハーマンの息子)
ジョン・マンキーウィッツ(英語版)(又甥、ドンの息子)
ジョシュ・マンキーウィッツ(英語版)(又甥、フランクの息子)
ベン・マンキーウィッツ(英語版)(又甥、フランクの息子)
ニック・デイヴィス(英語版)(又甥、ハーマンの娘ジョハンナの息子)

 受賞
アカデミー賞
監督賞
1949年三人の妻への手紙
1950年イヴの総て
脚色賞
1949年『三人の妻への手紙』
1950年『イヴの総て』
カンヌ国際映画祭
審査員特別賞
1951年『イヴの総て』
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
1987年
ニューヨーク映画批評家協会賞
監督賞
1950年『イヴの総て』
ゴールデングローブ賞
脚本賞
1950年『イヴの総て』
その他の賞

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ジョーゼフ・リーオ・マンキーウィッツ(Joseph Leo Mankiewicz, 1909年2月11日 - 1993年2月5日)はアメリカ合衆国映画監督映画プロデューサー脚本家である。日本語では、ジョセフ・L・マンキーウィッツ、ジョセフ・L・マンキウィッツとも表記される。
経歴
生い立ち

ペンシルベニア州ウィルクスバリにてポーランド系ユダヤ人の移民の子として生まれる。1924年ニューヨークの高校にジョセフが卒業したのを機に一家でニューヨークに移り住む。

1928年コロンビア大学で学士号を取得したのち、シカゴ・トリビューンの特派員記者としてベルリンで働くうち、パラマウント映画のベルリン支部に入社して、ウーファ撮影所でドイツ製サイレント映画にアメリカの観客向けの映画に字幕をつける仕事をするようになった。それをきっかけとして映画の脚本を書くようになり、1930年代には脚本家として活躍。
映画界へ

パラマウントからMGMに移籍し、1936年の『地獄への挑戦』では、マンキーウィッツは監督になることを望んだが、撮影所の重役で大物プロデューサーのルイス・B・メイヤーからまず製作者として映画製作の経験を積むべきだと忠告され、製作者として手掛ける。以降はプロデューサーとしてスペンサー・トレイシー主演の『激怒』、エーリヒ・マリア・レマルク原作の『三人の仲間』、キャサリン・ヘプバーンの『フィラデルフィア物語』『女性No.1』など大ヒット作を世に送り出し、敏腕プロデューサーとしての名をあげる。

1943年ジュディ・ガーランド主演のミュージカル『踊る海賊』の映画化を企画したマンキーウィッツは、ガーランドと恋に落ちるも、当時すでに両方とも既婚者だったためにメイヤーの反感を買ってしまい、MGMに居られなくなったマンキーウィッツは20世紀フォックスに移籍、移籍第一作となった1944年グレゴリー・ペック主演の『王国の鍵』では製作と脚本を担当した。
世界的な映画制作者に

脚本家、製作者として名声を得たマンキーウィッツだが、1940年代に入り、プレストン・スタージェスジョン・ヒューストンビリー・ワイルダーといった脚本畑出身の映画監督が華々しく登場していた。そしてマンキーウィッツも1946年に病気で降板したエルンスト・ルビッチ監督に代わってメガホンを取った『呪われた城』で念願だった映画監督としてデビューする。

以降は脚本家として培った、洗練された台詞回しと知的で文学的な雰囲気を漂わせる作風で、1947年の『幽霊と未亡人』と1949年の『他人の家』など上質の娯楽映画を次々と発表、興行的にも批評的にも高い評価を得て、監督としても大成功を収める。そして1949年の『三人の妻への手紙』と1950年の『イヴの総て』でそれぞれアカデミー監督賞脚色賞を2回ずつ受賞。特に『イヴの総て』ではアカデミー作品賞の栄冠に輝いた。

1950年からは全米監督協会の会長を務めるが、革新的な考えを持っていたため、セシル・B・デミルをはじめとする超保守派から猛反発を受ける[1]。同年10月22日の深夜まで及んだ臨時総会でのジョン・フォードの発言で、マンキーウィッツは会長を留任し、デミルが排斥される結果となる[1]

『イヴの総て』の大成功の後、大プロデューサーのダリル・F・ザナックの後押しもあって、1952年スパイサスペンス『五本の指』、1953年マーロン・ブランド主演のシェークスピア劇『ジュリアス・シーザー』、1954年ハンフリー・ボガートエヴァ・ガードナー共演の『裸足の伯爵夫人』、1955年ブロードウェイミュージカルの映画化『野郎どもと女たち』、1959年エリザベス・テイラー主演でテネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化『去年の夏突然に』などを手掛けてゆく。
興行的失敗と復活

しかし、1963年の大作『クレオパトラ』では、主演のエリザベス・テイラーが病気で倒れたり、配役も何度も変更になるなど撮影中に次々とアクシデントが起きて撮影が一向に進まず、マンキーウィッツの理解者であったザナックも投入した資金を早く回収しなければならず、結局、無理やり1本にまとめて公開されるも、製作会社の20世紀FOXが倒産の危機に瀕する程の大赤字となり、ハリウッド史上空前の失敗作となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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