ジョージ4世
George IV
イギリス国王
ハノーファー国王
ジョージ4世(トーマス・ローレンス画、1821年)
在位1820年1月29日 - 1830年6月26日
戴冠式1821年7月19日、於ウェストミンスター寺院
全名George Augustus Frederick
ジョージ・オーガスタス・フレデリック
出生1762年8月12日
グレートブリテン王国
イングランド、ロンドン、セント・ジェームズ宮殿
死去 (1830-06-26) 1830年6月26日(67歳没)
イギリス
イングランド、バークシャー、ウィンザー城
埋葬1830年7月15日
イギリス
イングランド、バークシャー、ウィンザー城、セント・ジョージ礼拝堂
王弟ウィリアム4世
配偶者キャロライン・オブ・ブランズウィック
子女シャーロット
家名ハノーヴァー家
王朝ハノーヴァー朝
王室歌神よ国王を守り給え
父親ジョージ3世
母親シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ
宗教イングランド国教会
サイン
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ジョージ4世(英語: George IV、1762年8月12日 ? 1830年6月26日)は、イギリス、ハノーヴァー朝の国王(在位:1820年1月29日 - 1830年6月26日)。ハノーファー王国の国王ゲオルク4世(ドイツ語: Georg IV.)でもあった。父はジョージ3世、母はその妃シャーロット。妃はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの次女キャロライン(ドイツ名カロリーネ)。1811年から即位するまで、父の精神疾患により摂政王太子として統治した。
ジョージ4世の摂政時期とその治世下では19世紀に確立されたパクス・ブリタニカの基礎が築かれていたが[1]、ジョージ4世の行動は無責任で利己的かつ常に取り巻きの寵臣の影響下にあると見做されていた[2]。ジョージ4世は贅沢な生活を送り、新しい形のレジャー、スタイル、趣味のパトロンになり、ジョージ・ブランメルやジョン・ナッシュを支援して摂政時代の流行に貢献した。ジョージ4世は魅力と教養により「イングランド一の紳士」と呼ばれたが[3]、その放蕩な生活、さらに妻キャロラインとの関係の悪さに、当時の人々は不満を持ち、王家の名声が落ちた。
ジョージ4世の唯一の嫡出子シャーロット王女は1817年に先立って薨去、そのため王位を継承したのは弟ウィリアムだった。
幼年期ジョージ(左)、母のシャーロット王妃と弟のフレデリック。アラン・ラムゼー作、1764年。
ジョージ4世は1762年8月12日、セント・ジェームズ宮殿において、グレートブリテン王ジョージ3世とシャーロット王妃の間の長男として生まれた。イギリス国王の長男だったため、生まれてすぐにコーンウォール公とロスシー公となった。数日後にはプリンス・オブ・ウェールズとチェスター伯に叙された[4]。同年9月18日、カンタベリー大主教トマス・セッカー
(英語版)により洗礼がなされた[5]。名親はメクレンブルク=シュトレーリッツ公アドルフ・フリードリヒ4世(ジョージの母方の伯父。宮内長官(英語版)のデヴォンシャー公爵が代理)、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス(父方の大叔父)、オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ(父方の祖母)[6]。ジョージは学生としてその才能を示し、母語である英語のほかにフランス語、ドイツ語、イタリア語を速く学んだ[7]。