ジョージ・W・デロング
George Washington DeLong
生誕1844年8月22日
アメリカ合衆国ニューヨーク州 ニューヨーク
死没 (1881-10-31) 1881年10月31日(37歳没)(推定)
ロシア帝国 レナ川河口付近
所属組織アメリカ海軍
軍歴1865 - 1881
最終階級海軍少佐
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ジョージ・ワシントン・デロング(George Washington DeLong, 1844年8月22日 ? 1881年10月31日)は、アメリカ合衆国の海軍士官、探検家。 デロングはニューヨーク市で生まれ、メリーランド州アナポリスの海軍兵学校で学んだ。デロングの初航海は、1873年に北極で遭難した船の捜索である。この時以来、デロングは、北極の魅力に取り憑かれた。1879年、ニューヨーク・ヘラルド紙のオーナージェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニア
経歴
科学データや動物標本の収集とあわせて、1881年の夏にデロングは3つの島(デロング諸島)を発見し、アメリカ領と宣言した。なお、この航海でデロングは、ノヴォシビルスク諸島の北側を通っている。彼はこの付近にあるとされる、ヤコフ・サンニコフが発見したというサンニコフ島を見つける事は出来なかったが、この事によって、サンニコフ島の有無を巡る論争を高める結果となった。
ジャネット号は氷に閉じ込められ、そして押しつぶされて沈んだ。デロング達は船を捨てて3つの小さなボートでシベリアを目指した。開氷面に到着後、彼らはばらばらになってしまった。1隻のボートは行方不明となり、その痕跡は何も発見されなかった。デロングの乗るボートは陸地にたどり着いたが、救助を求めるために送られた二人のみが生き残った。ジョージ・W・メルヴィル
が率いた3隻目のボートはレナ川デルタに着き、救助された。メルヴィルは翌1882年に捜索を行い、レナ川デルタにある小島Америка-Куба-Арыта[1]でデロング達の遺体を発見した。デロング達は餓死しており、デロングの遺体のそばには彼の日記が残されていた。この航海では19名が死亡し、捜索作戦中にもさらに死者が出た。
脚注^ 島の名前にあるАмерикаはデロングにちなんでつけられており、上陸地点と思われる場所に記念碑が設けられている。
外部リンク
⇒Jeannette Arctic Expedition
典拠管理
BIBSYS: 97007262
BNF: cb12106717q (データ)
DTBIO: 118679414
FAST: ⇒177669
GND: 118679414
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SNAC: w6k7575j, w6086mgk
SUDOC: 029440211
VcBA: 495/120231
VIAF: 2501650
WorldCat Identities: lccn-n85288167
更新日時:2021年3月2日(火)16:30
取得日時:2022/03/21 11:02