ジョージ・H・W・ブッシュ
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ジョージ・H・W・ブッシュ
George H. W. Bush

大統領公式肖像(1989年11月)
アメリカ合衆国
第41代大統領
任期1989年1月20日1993年1月20日
副大統領ダン・クエール
アメリカ合衆国
第43代副大統領
任期1981年1月20日1989年1月20日
大統領ロナルド・レーガン
アメリカ合衆国
第11代 中央情報局(CIA)長官
任期1976年1月30日1977年1月20日
副長官バーノン・A・ウォルターズ
エノ・ヘンリー・クノッシュ
アメリカ合衆国
第10代国際連合大使
任期1971年3月1日1973年7月18日
大統領リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国
下院議員
任期1967年1月3日1971年1月3日

出生 (1924-06-12) 1924年6月12日
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ミルトン
死去 (2018-11-30) 2018年11月30日(94歳没)
アメリカ合衆国 テキサス州ヒューストン
政党共和党
出身校グリニッジ・カントリー・デイスクール
イェール大学
配偶者バーバラ・ブッシュ(2018年に死別)
子女ジョージ・W・ブッシュ
ポーリン・ロビンソン・ブッシュ
ジェブ・ブッシュ
ニール・ブッシュ
マーヴィン・P・ブッシュ
ドロシー・ブッシュ・コック
署名

世界ゴルフ殿堂殿堂表彰者
選出年2011年
選出部門特別功労

ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ[注釈 1]英語: George Herbert Walker Bush、1924年6月12日 - 2018年11月30日)は、アメリカ合衆国政治家。同国第41代大統領(在任:1989年1月20日 - 1993年1月20日)。テキサス州選出連邦下院議員国際連合大使、米中連絡事務所所長、中央情報長官(CIA長官)、副大統領を歴任した。死去時最高齢(94歳)の大統領経験者であったが、2019年3月22日に、同年生まれのジミー・カーターが最高齢記録を更新している。第43代アメリカ合衆国大統領を務めたジョージ・W・ブッシュは彼の長男である。
人物・来歴
生い立ち1925年に撮影された幼少時代のジョージ・H・W・ブッシュ

1924年6月12日、マサチューセッツ州ミルトンにてプレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として誕生した。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党連邦上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン(英語版)」に在籍していた。なおブッシュ家は雑系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。
学校

ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後に国への義務を果たすべく海軍に志願した。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。
軍歴アメリカ海軍時代のポートレイト家族との写真(1949年)

1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み、第51雷撃飛行隊に所属して太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、2度の被撃墜も経験した。

少尉時代の1944年に参加したマリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって乗機のTBF-1Cを、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機のTBMを撃墜されているが[注釈 2]、いずれも味方に救助され生還している。

2度目の際には敵地近くであり、同乗していた砲塔機銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等兵曹は戦死し自身も4時間に渡って漂流して捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦フィンバック」に救助された。この父島では後に小笠原事件が起きたとされる。この経験から「はなぜ自分を生かしたのか?自分に示された神の意図は何か?」と自問するようになる[3]

翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月にサン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章(Presidential Unit Citation)1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。
帰還後

太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日、バーバラ・ピアスとライ(ニューヨーク州)で結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントン(英語版)の小さな賃貸アパートだった。

帰国後はイェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは、試合前にベーブ・ルースとも対面している。

入学した年には父のプレスコット・ブッシュも属した秘密結社であるスカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年には経済学の学士号を取得し卒業している。その後は地元テキサス州でオイルビジネスに従事した。
CIAとの関わり

ジョージ・ブッシュはイェール大学卒業後に土木・建築事業のコングロマリットで、CIAと緊密に協力していたドレッサー・インダストリーズ(英語版)(現在のハリバートン[4])の子会社アイデコ(インターナショナル・デリック・アンド・エクイップメント・カンパニーの略)のセールスマンになり、アイデコ社のサービスを共産圏も含めた世界各国で営業して回るという仕事を与えられた。ブッシュはアレン・ダレスのスパイだったジョージ・ド・モーレンシルツというロシア伯爵と頻繁に接触し、CIAが欲しがるような共産圏の石油関連情報を収集し、CIAに提供していたという。

彼にこの重要な仕事を与えたのはドレッサー・インダストリーズのヘンリー・ニール・マロン(英語版)社長であった。マロン社長は父のプレスコットのイェール大学の同級生で、ブッシュ家と親しい間柄であった。またマロン社長はアレン・ダレスとも親密な関係を持ち、将来有望なスパイ候補者を頻繁にダレスのもとに送ったり、CIAの工作のためにスパイに偽装の職場を提供したりと、CIAと緊密に協力していた。ジョージ・ブッシュは1953年にはザパタ石油会社を立ち上げ、CIAがメキシコでの工作活動に乗り出した1959年には、CIAの活動に積極的に協力した[5]

1963年FBIはブッシュをCIAの職員と証拠づけるもブッシュは否定しなかった[6]。その後もブッシュはCIA長官に就任し、CIA本部にその名前を冠するまで強い繋がりをCIAと持ち続けた[7]
政治経歴
連邦下院議員ドワイト・D・アイゼンハワーと共に米中連絡事務所所長時代に天安門にて(1975年)

1964年、ブッシュはテキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党ラルフ・ヤーボロー上院議員に対抗して上院議員選挙に出馬し、政治家に乗り出した。

ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。

ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から連邦下院議員に選任された。彼はその後1970年に民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに2度目の連邦上院議員選挙で敗れた。
国際連合大使と中央情報長官

ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で共和党全国委員会委員長・国際連合大使中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)・危機委員会評議員などの要職を歴任した。当初、大統領であるフォードはブッシュを副大統領候補に検討していたが、ブッシュの選挙キャンペーンにニクソンの秘密資金が流入していた疑惑を特別検察官が捜査していた為にネルソン・ロックフェラーを選択したとされる[8]

リチャード・ニクソン政権で国際連合大使として中華人民共和国の国際連合加盟を認めたアルバニア決議やそれに伴う次期国際連合事務総長の選出をめぐるアメリカ合衆国とソビエト連邦中華人民共和国の三つ巴の駆け引きへの対応に追われ[9][10]、米中連絡事務所所長となった際は訪中した当時の大統領フォードに同行、中華人民共和国主席だった毛沢東とも2度会見した[11]。事実上の特命全権公使として中国で過ごした経験は世界の問題に対するアメリカの強い関与の必要性をブッシュに確信させたとされる[12]

1年間と短い期間ではあったが、中央情報長官(CIA長官)(1976年1月30日 ? 1977年1月20日)も務め、中国への赴任直後であった為驚きを持って受け取られた。


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