ジョージ・レーゼンビー
George Lazenby
2008年撮影
本名George Robert Lazenby
生年月日 (1939-09-05) 1939年9月5日(84歳)
出生地 オーストラリア・ニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤン
身長187cm
ジャンル俳優
活動期間1969年 -
活動内容1969年:映画デビュー
主な作品
『女王陛下の007』
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ジョージ・レーゼンビー(George Lazenby、1939年9月5日 - )は、オーストラリアの俳優。2代目ジェームズ・ボンド役が有名であり、歴代ボンドの中でも唯一、ヨーロッパ人以外の俳優でもある。 レーゼンビーは1939年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州クイーン・ベイヤンに生まれた。高校を卒業後、キャンベラにあるモリス・モーター社で車のセールスマンをした。スポーツではスキーが得意で、スキーのインストラクターをしながら、いくつかの競技に出場した。また地元バンドにも所属し、ベースを担当していた。そしてオーストラリア軍に所属し、軍曹の階級を得てマーシャル・アーツのインストラクターをした。除隊後、1964年にロンドンに移り住み、中古車のセールスマンを続けていたが、間もなくファッションモデルにスカウトされ、雑誌PB等の売れっ子モデルとなる。 俳優でなかったため、この当時の映画やドラマへの出演はなかったが、チョコレートバーのテレビCMに起用され脚光を浴びる。のちに『女王陛下の007』で監督をするピーター・ハントによれば『あのCMのおかげで誰もがレーゼンビーの顔を知っていた』[1]という。 ショーン・コネリー(初代)が映画『007』シリーズの主演降板を表明し、また、後に3代目を襲名するロジャー・ムーアとの出演契約の断念を受け、イーオン・プロダクションズとユナイテッド・アーティスツは数百人からなる2代目ジェームズ・ボンド候補を検討した。結果、レーゼンビーがスクリーンテストに合格した。アクションの上手さをピーター・ハント監督に買われたことが要因だった。1969年にシリーズ第6作『女王陛下の007』でジェームズ・ボンド役に抜擢される。2人のプロデューサーのうち、アルバート・R・ブロッコリよりもハリー・サルツマンが強くレーゼンビーを推した。 撮影中にレーゼンビー自ら、次回作以降の降板を申し出てしまったが、本人が後に「続ければよかった。もう1作続けていれば、さらに7本続いたと思う[2]」と発言する一方で、アルバート・R・ブロッコリは撮影中「この映画がレーゼンビーにとって最初で最後の007になるだろう」と言った[3]。現場での態度も悪く、Q役のデスモンド・リュウェリンは「あいつはスターの振る舞いとは、現場に遅れてくると思ってたようだ」と語っている[4]。レーゼンビーはブロッコリの妻、ダナが関係者を招待したパーティでもトラブルを起こした。ダナは招待状を送る手間を省き、招待者リストを壁に貼った。するとパーティの当日、レーゼンビーは会場の外で無愛想に振る舞った。中へ入るように誘うダナに「俺はスターだぞ!招待状を送るのが礼儀だ」とダナに食ってかかった。するとブロッコリが「自分でスターなんて言っても無意味だ」と諭した[1]。 しかし後年のインタビューでブロッコリは「あれはいい映画だった[5]」と回想し、後にバーバラ・ブロッコリと共にプロデューサーを継いだマイケル・G・ウィルソンも「今でも多くのファンがいるのはうなずける[6]」と言っている。 実際、ロジャー・ムーア時代にはムーアが2代目ボンドと勘違いされるほど存在感が薄かったが、原作ファンによる作品の再評価や、一本しか出演していないプレミア感から、年を重ねるごとに存在感を増している。 2024年時点で歴代最年少のボンドである。 『女王陛下の007』ではスキーを得意としていながら、スキーシーンで主演ゆえスタントマンの使用を強制されてしまったものの、元来の運動神経の良さを買われ、1973年に香港のゴールデン・ハーベスト社(以下、「GH社」)の名プロデューサー、レイモンド・チョウ(鄒文懐)の招きで、彼の製作するブルース・リーの『死亡遊戯』に出演するめどが立った。この作品はGH社傘下のリーのスター・プロであるコンコルド・プロダクションと、米ワーナー・ブラザースとの合作『燃えよドラゴン』公開前であったため、リーは香港を除く国際市場ではまだ、映画スターと呼ばれる域に達しておらず、イギリスの植民地である香港でのレーゼンビーの映画出演は事実上の「都落ち」だった。レーゼンビーによれば、ボンド役降板の際にブロッコリから「おまえはマカロニ・ウェスタンどまりだ」と揶揄された[7]というが、香港のカンフー映画の脇役出演も似たようなものであった。リーの急死により、1978年に追加撮影され完成された『死亡遊戯』は脚本も大幅に変えられたことから、オリジナルのキャストも一新され、レーゼンビーの出演も叶わなかった。 だがそれ以前に、『死亡遊戯』出演が流れた代わりとして、レーゼンビーはゴールデン・ハーベストとの間に3本の映画の出演契約を取りつけた。マーシャル・アーツの特技を活かし、ゴールデン・ハーベスト製作の香港映画『暗黒街のドラゴン 電撃ストーナー』(1974年、ファン・フェン監督)でアンジェラ・マオ それ以降はアメリカ・サンタモニカに移り住み、レーサーをした。俳優としてしばしば、ボンドのパロディを演じている。1983年の『0011ナポレオン・ソロ2』では、『JB』の役名でタキシードを着てアストンマーティン・DB5に乗るイギリスのスパイを楽しげに演じた。この年はショーン・コネリー主演『ネバーセイ・ネバーアゲイン』とロジャー・ムーア主演『007 オクトパシー』が製作、公開され、世間を賑わせたが、同時に当時の歴代ボンド全員が揃い踏みの形になった(もっとも、レーゼンビーはボンドと思しき役であり、製作側は映画界で話題の「コネリーvsムーア」に当て込んでいた)。同作のプロデューサーは後に自身が製作したTVシリーズ『忍者ジョン&マックス
略歴
生い立ち
2代目ジェームズ・ボンド
ボンド役引退後