ジョージ・マクドナルド
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マクドナルド(1880年代の写真)

ジョージ・マクドナルド(George MacDonald, 1824年12月10日 - 1905年9月18日)は、スコットランド小説家、詩人、聖職者。

日本では、『リリス (小説)(英語版)』などの幻想文学や、『お姫さまとゴブリンの物語』などの児童向けファンタジーの作者として知られる。

今日ではさほどの知名度は無いが、彼の作品(特に童話ファンタジー小説)はW・H・オーデンJ・R・R・トールキンC・S・ルイスマデレイン・レングルらといった作家たちに賞賛されている。例えば、C・S・ルイスはマクドナルドを自分の「師匠」と呼び、その作品を読んだ経験を次のように語っている。「ある日、駅の売店で『ファンタステス』を手に取り、読み始めた。二三時間後、私は自分が大いなるフロンティアを横断し終わったことに気付いた」。G・K・チェスタートンは『お姫さまとゴブリンの物語』を「私という存在を変えた」本だと述べている。マーク・トウェインも、当初こそマクドナルドを嫌っていたものの、彼と友誼を結んだ。
前半生

1824年にスコットランド、旧アバディーンシャイアのハントリー(Huntly)で生まれた。父は農家で、1692年の「グレン・コーの虐殺」から逃れたグレン・コー(コー渓谷)のマクドナルド氏族の末裔であった。この地方に見られるドーリック方言(スコットランド語の北東部方言)は、彼の非ファンタジー小説にも登場する。

マクドナルドは、会衆派教会カルヴァン主義の影響下で育った。だが彼はカルヴァン派の教義には多少、相容れないものを感じていた。伝えられる所によると、予定説に関する説明を初めて聞かされた時、マクドナルドは突如として泣き崩れたという。後年の作品"Robert Falcone"、『リリス』などからは、神の救済が一部の人間にしか約束されていないという思想に対する嫌悪が読み取れる。

ジョージ・マクドナルドはアバディーン大学で学位を取得したのち、ロンドンに上京してハイベリー大学(Highbury College)で会衆派協会の聖職者となるための教育を受けた。

1850年、ウェスト・サセックス州アランデル(Arundel)で牧師の口を得たが、彼の説教は不人気で、給料を半分に減額された。その後マンチェスターで職を得たが、健康上の理由で辞職。アルジェに短期間の逗留をした後、ロンドンに移住。1867年からはハマースミスのザ・リトリート(のちにウィリアム・モリスの屋敷であるケルムスコット・ハウスになる)に住むようになり、『北風のうしろの国へ』(At the Back of the North Wind, 1871) や『お姫様とゴブリンの物語』(The Princess and the Goblin, 1873) はここで執筆した[1]。マクドナルドは一時、雑誌"Good Words for the Young"の編集者としても働いた。1872年から73年にかけてはアメリカで講師としても成功した。
作家として晩年(1901年)の写真

ファンタジーの『ファンタステス』『お姫様とゴブリンの物語』『北風のうしろの国』『リリス』、児童向けの『かるいお姫さま』『黄金の鍵』『きえてしまった王女』はマクドナルドの代表作である。「私は子供のためではなく、子供の心を持った人……5歳だろうと、15歳だろうと、75歳だろうと実年齢は関係ない……のために書くのだ」とマクドナルドは記している。

彼はルイス・キャロルの助言者でもあった。『不思議の国のアリス』の公刊をキャロルに勧めたのはマクドナルドである。

ジョン・ラスキンの友人でもあり、ラスキンとローズ・ラ・トゥーシュ(Rose La Touche)の付き合いにおいては仲人役を務めた。

マクドナルドは当時の文学界の大物たちと手広く交際していた。テニスンディケンズウィルキー・コリンズアントニー・トロロープ(Anthony Trollope)、ラスキン、ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes)、サッカレーとの集合写真が現存している。アメリカのロングフェローホイットマンとも友人であった。


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