ジョージ・ペパード
[Wikipedia|▼Menu]

ジョージ・ペパード
George Peppard
1966年宣材写真
本名George William Peppard
生年月日 (1928-10-01) 1928年10月1日
没年月日 (1994-05-08) 1994年5月8日(65歳没)
出生地 アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスL.A.
身長183cm
職業俳優
ジャンル映画、テレビ
活動期間1951年 - 1994年
配偶者Helen Davies (1954?1964)
Elizabeth Ashley (1966?1972)
Sherry Boucher (1975?1979)
(Alexis Adams 1984?1986)
Laura Taylor (1992?1994)
テンプレートを表示

ジョージ・ペパード(George William Peppard [p??p??rd] , 1928年10月1日 ?1994年5月8日)は、アメリカ合衆国の映画とTVで活躍した俳優である。

ペパードは、映画『ティファニーで朝食を』(1961)でオードリー・ヘプバーンと共演して、メジャーな俳優としての地位を確立した[1]。その後映画『大いなる野望』(1964)にハワード・ヒューズをモデルとしたジョナス・コード役で出演した。TV作品では、1970年代初期のミステリー・ドラマ『バナチェック登場』での富豪の保険調査員で探偵のトマス・バナチェック役と、1980年代のアクション・ドラマ『特攻野郎Aチーム』でのシガー愛好家で無法部隊のリーダーであるジョン・スミス大佐役での出演で有名である[1]
初期の経歴

ペパードは、ミシガン州デトロイト出身である。父親は建設請負業者ジョージ・ペパード・シニアで、母親はオペラ歌手兼声楽教師のヴェネール・ローラーであった[2]

1946年にミシガン州ディアボーンのディアボーン・ハイスクールを卒業した。そして、1946年7月8日にアメリカ合衆国海兵隊に入隊して、1948年1月の終了時には伍長の地位に昇格していた[3]

ペパードは1948年と1949年に、パデュー大学で土木工学を学んだ。そしてPurdue Playmakers theatre troupeとBeta Theta Pi fraternityのメンバーだった[1]。その後、彼はペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に移り、1955年に学士号を取得した[4]。また、ピッツバーグ・プレイハウスで俳優としての訓練を受けた[5]

ペパードは俳優以外にパイロットでもあった。1966年の新婚旅行の途中でカンザス州ウィチタで リアジェットを飛ばすための訓練に費やした[6][7]
俳優としての経歴

ペパードは1949年にピッツバーグ・プレイハウスでステージでのデビューを行った。そして、ニュー・ヨークに移った後にアクターズ・スタジオに参加してリー・ストラスバーグと共にメソッド演技法を学んだ。ペパードは俳優以前には、ディスク・ジョッキー、放送局のエンジニア、フェンシングの指導、タクシーの運転手、オートバイ修理店の整備士などの仕事に就いて働いていた[8]

ペパードはニュー・イングランドのサマー・ストックの手伝いをしていて、オレゴン州のアシュランドにある"Oregon Shakespeare Festival"に出演した。そして、ブロードウェイでのデビューは『Girls of Summer』(1956)で、ミッキー役での出演だった。TVには『USスチール・アワー』でポール・ニューマンが出演したエピソード『"Bang the Drum Slowly"』(1956)に、歌ってギターを弾く野球選手、パイニー・ウッズ役で出演したのが最初であった。映画は『The Strange One』(1957)での士官候補生ロバート役が最初の出演であった。
MGM

ペパードは、MGMの映画『肉体の遺産』(1960)のオーディションで役を得たときには、すでにブロードウェイの『The Pleasure of His Company』(1958)への出演が決定済みであった。したがって『The Pleasure of His Company』のステージに6ヶ月出演してから映画『肉体の遺産』の撮影を行った。MGMとペパ?ドの間には長期の専属契約が締結されていた[9]

『肉体の遺産』は、ヴィンセント・ミネリが監督して、ロバート・ミッチャムがペパードの父親役で出演した名声高い映画だった。興行収入は高かったのだが、製作費も膨らんでいたために、営利的に成功した作品とはならなかった。

MGMでの次の出演作品は、ジャック・ケルアックの1958年の小説に基づいた『地下街の住人』(1960)であった。興行成績は不振であったが、ペパードはその後「この映画が原因で、私が罪に問われることはなかった。」と言っていた[10]
スターダム『ティファニーで朝食を』でのジョージ・ペパード (1961)

ペパードはその容貌とエレガントなマナー、優れた演技能力によってオードリー・ヘプバーンと共演した、映画『ティファニーで朝食を』(1961)が、ペパードの最も有名な映画となった。この映画はトルーマン・カポーティの小説に基づいて制作されたもので、ペパードはこのポール・バージャック役でメジャーな映画スターに押し上げられた。

この年、新聞記事はペパードを「次の大物」と名付けた。ペパードはこの時期について、「2つのTVシリーズを遠慮して、求められていた映画スターとしての俳優の作品に焦点を合わせた。」と述べている。MGMとの契約は、1年に2本のMGMとの映画と1本外部の映画、そして6本のTV出演が認められていた。また、2年毎にステージ作品に出演する権利があった[11]

ペパードは、映画『Unarmed in Paradise』への出演が予定されていたが、これは制作されず、代わりにMGMは叙事詩的なウェスタン映画『西部開拓史』(1962)の主役に起用した。映画全体は全5部であったがペパードの演じたゼブ・ローリングスはその内の3部に登場した。この映画は大ヒットとなった[12]

ペパードはカール・フォアマンの作による『勝利者』(1963)に出演して、続いて最も注目された150分の非情な武勇伝であった映画、『大いなる野望』(1964)にジョナス・コード役で出演した。ハロルド・ロビンズのベスト・セラーであった小説を原作とした、ハワード・ヒューズのような航空機産業と映画界の大御所を描いたものであった。この映画は1964年の大きな興業収入を得た作品となった。

「私の演技はうんざりするようなものだった。」とペパードは1964年のインタビューで答えた。そして、望んでいたのは「1つの素晴らしい演技を提供することであった。」と付け加えた。「私はそのために撮影するのは少し厚かましいかもしれないと思うが、それはホッケーのゴールのような目標である。私は選択の余地があったと考えている...結果ではなく目的があった。私の目的は1つの素晴らしい演技だった[13]。」

MGMで、ペパードは映画『クロスボー作戦』(1965)に出演した。その次に、『Merrily We Roll Along』に基づいた作品への出演を計画していたが、実現しなかった[14]

ペパードは大作映画でのタフガイの役を選択して演じるようになって、アンサンブル・キャストとしては不向きになっていった。映画『ブルー・マックス』(1966年)には、ドイツのパイロットのブルーノ・スタッヘル役で出演した。第一次世界大戦中に、プロイセンの貴族に挑戦する、競争心が強い平民出身の将校の役であった。この役のために、ペパードはプライヴェート・パイロットの免許を取得して、スタント飛行の多くを自分で行ったが、有名な橋の下の飛行シーンはスタント・パイロットのデレク・ピゴットがコントロールを行っていた。

「私はスターではなく俳優です。」とペパードは話した。今回の映画の中では見い出したと続けた。「3つのこと、良い監督、良いパート、良い脚本を探していました。私は満足しています[15]。」

ペパードは、映画『カラハリ砂漠』(1965)に主役として出演の予定であったが、数日間の撮影を行った後にセットを後にした[16]

映画評論家のデイヴィッド・シップマンは、ペパードのキャリアのこの段階について書いている。「ペパードはクールで、ブロンドのベイビーフェイスな外観と、冷酷さを伴った押し出しを備えた雰囲気で、スクリーンでは強い存在の人間としての顔を確立しました。60年代のアラン・ラッドまたはリチャード・ウィドマークだったかもしれませんが、60年代は新しいアラン・ラッドを求めてはいませんでした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef