ジョージ・ハーバート_(第5代カーナヴォン伯)
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イギリス政治家第5代カーナーヴォン伯爵
ジョージ・ハーバートGeorge Herbert, 5th Earl of Carnarvon
エジプト・テーベハワード・カーター邸で
生年月日1866年6月26日
出生地 イングランドハンプシャーハイクレア・カースル
没年月日 (1923-04-05) 1923年4月5日(56歳没)
死没地 エジプト, カイロ
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
称号カーナーヴォン伯爵
副統監(DL)
親族第4代カーナーヴォン伯爵(父)
貴族院議員
在任期間1890年6月28日 - 1923年4月5日[1]
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第5代カーナーヴォン伯爵ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート (英語: George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon, 1866年6月26日 - 1923年4月5日)は、イギリスの貴族、考古学者、政治家。

古代エジプトファラオツタンカーメン王墓発掘の資金提供者として知られる。日本ではカーナーヴォン卿(敬称である Lord Carnarvon の翻訳)の名で紹介され、広く知られている。

1890年まではポーチェスター卿(Lord Porchester)の儀礼称号を使用した。
生涯

1866年7月26日に第4代カーナーヴォン伯爵ヘンリー・ハーバートの長男として一族の居城であるハンプシャー州ハイクレア・カースルで生まれた。生誕時よりカーナーヴォン伯爵家の嫡男の儀礼称号ポーチェスター卿の儀礼称号を持っていた[2]

1875年に母エヴェリンが死去し、父方の叔母が母親代わりを務めた[3]イートン校を経て、1885年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[4]

学生時代に父ヘンリーがイタリアポルトフィーノに別荘を買ったため、ジョージもそこでヨットを購入した。1887年に大学を卒業するとヨットで世界巡航[注釈 1]を行った。この海上で過ごした数カ月の間に暇な時に本を読む習慣が付き、とりわけ歴史に興味を持つようになったという[5]。ヨット世界巡航が終わった後も世界各地を旅行し、南アフリカオーストラリア日本などを訪問した[6]

そんな中の1890年に父が死去し、23歳にして第5代カーナーヴォン伯爵位を継承し[6]貴族院議員に列した[1]

爵位を継いだ後も世界各地の旅行を続け、フランスやトルコ、イタリア、ドイツ、アメリカ、南米などを歴訪した[7]

1895年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドの娘といわれ、アルフレッドから巨額の金銭支援を受けているアルミナ・ウォムウェルと結婚した。以降ジョージも金回りがよくなった[8]


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出典検索?: "ジョージ・ハーバート" 第5代カーナヴォン伯 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年6月)

資産家として突出していたジョージは、初めは競走馬の所有者として有名であった。1902年にはサラブレッド繁殖場であるハイクレア・スタッドを創設した。また、以下はカーナーヴォン伯家とバークシャー州のニューバリー競馬場(w:Newbury Racecourse、大英G1レースの1つロッキンジステークスの会場にもなっている)の関係は、1905年に彼が新しい役員の一人に任命されて以来絶え間なく続いている。ちなみに、彼の孫にあたる第7代以下はカーナーヴォン伯ヘンリー・ハーバートは、1969年から亡くなるまでエリザベス2世のレーシングマネージャー(所有競走馬の出走予定や搭乗騎手の手配などを総合的に管理する役職)を務めており、エリザベス2世の最も親しい友人の一人であった。

またジョージは自動車の黎明期において、向こう見ずな自動車乗りとしても有名だった。自身は慎重な「自動車運転者」だと思っていたようだが、当時の『Autocar』誌には、彼の車が時速20マイル(約32キロ)以上の「光のごとき」スピードで、道行く人々や自転車を追い越していく様子が伝えられている。しかし、1901年ドイツで重度の障害を残すほどの深刻な自動車事故に遭ってしまった。1903年に初めてエジプトを訪れたのも、事故以来徐々に弱っていく身体が、冬場の英国の湿潤な気候と厳しい冷気に耐えられないためであった。

そして、ジョージは熱狂的なアマチュアのエジプト考古学者であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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