第2代スペンサー伯爵
ジョージ・スペンサーGeorge Spencer, 2nd Earl Spencer
ガーター勲章の星章を着用した2代スペンサー伯 (ヘンリー・ピアース・ボーン
第2代スペンサー伯爵ジョージ・ジョン・スペンサー(英: George John Spencer, 2nd Earl Spencer、1758年9月1日 - 1834年11月10日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)、ロンドン好古家協会フェロー(FSA)[訳語疑問点]。
ホイッグ党に所属し、王璽尚書・海軍卿・内務大臣を歴任した。1765年に父がスペンサー伯爵に叙されてから自身が襲爵する1783年までは「オールトラップ子爵」の儀礼称号を称した。 1758年9月1日、イングランド・サリー州(当時。1965年にグレーター・ロンドンへ移管)のウィンブルドンで、後に初代スペンサー伯爵となるジョン・スペンサーの唯一の男子として生まれた[1][2][3][4][5]。ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、1778年に修士号(M.A.
目次
1 経歴
2 家族
3 出典
4 関連項目
5 外部リンク
経歴
1780年から1782年までノーサンプトンシャー州選挙区選出の、1782年から1783年までサリー州選挙区選出のホイッグ党所属庶民院議員[2][3][4]。1782年にはノース卿フレデリック・ノースの内閣(英語版)に対する倒閣運動に参加し[2]、続いて発足した第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースの第2次政権(英語版)では大蔵卿委員(Lord of the Treasury)の一人に任じられた[7]。1783年に父親の死去により爵位を相続し、貴族院に移った。
フランス王ルイ16世が処刑されフランスとイギリスが開戦すると、スペンサーはエドマンド・バークが主張するフランス革命批判に同調し、首相ウィリアム・ピット(小ピット)の支持者となった[3]。1794年6月11日、小ピットにより初代スタッフォード侯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアの後任の王璽尚書に指名されるが[8]、数日後神聖ローマ帝国駐箚特命全権大使(英語版)に任じられウィーンへ赴任[3][4]。