「バイロン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「バイロン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ジョージ・ゴードン・バイロン
アルバニア風衣装のバイロン
誕生1788年1月22日
グレートブリテン王国 ロンドン ホレス・ストリート
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788年1月22日 - 1824年4月19日[2])は、イングランドの詩人、貴族。バイロン卿として知られ、単に「バイロン卿」(Lord Byron)というとこの第6代男爵を指すことがほとんどである。
ゲーテが「今世紀最大の天才」と賞賛した19世紀ロマン派の詩人。ケンブリッジ大では悪友と交わって遊び暮らしたが、外遊後、長編物語詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』を発表して有名になった。
情熱家で、ギリシア独立戦争ではギリシア独立軍側で参加したが、熱病にかかり死亡した[3]。 ジョン・バイロン大尉(第5代バイロン男爵ウィリアム・バイロンの甥)と2番目の妻キャサリン・ゴードンの間にロンドンに生まれ、2歳の時にスコットランドのアバディーンに移った。1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド・アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。翌年ロンドンに出て1801年から1805年をハーロー校で過ごし、1805年にケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を過ごした。 詩集『懶惰の日々
生涯と作風
その間社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年にアナベラ・ミルバンク(英語版)と結婚した。このときにもうけた子が世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレスである。だが翌年に別居し、その乱れた生活が指弾を受けたため、イギリスを去りスイスのジュネーヴでシェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァで退廃した生活を続ける。特にグィッチョーリ伯爵夫人(英語版)との関係が有名である。多くの作品の中で、冷笑と機知に満ちた『ドン・ジュアン』(1819年 - 1824年)がこの期の代表作である。この作品の「事実は小説よりも奇なり」(Truth/Fact is stranger than fiction.)は現代でも使われるほど有名である[4][5]。
1823年ギリシャ暫定政府代表の訪問を受けた彼は2年前から始まったギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意、1824年1月にメソロンギに上陸し[6]、コリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画を立てたが、熱病により同地で死亡した。
彼の死後145年が経過した1969年にウェストミンスター寺院に彼を記念したコーナーが設けられた[7]。
いわゆるバイロニズムは、当時の偽善と偏見を嘲罵し、イギリス・ロマン主義を代表する作風であり、ロシアをふくむヨーロッパ諸国の文学に影響を与えた。日本でも明治以来もっともよく知られたイギリス詩人の一人である。
人物バイロンの死
1810年5月3日にダーダネルス海峡をヨーロッパからアジアへ泳いで渡った[8][9]。
政治的にはホイッグ党支持者でありトーリー党の外交政策を批判した[10]。
数多くの女性との恋愛を重ねた。ジェーン・エリザベス・スコット(英語版)と1812年まで関係を続け、同年キャロライン・ラム(のちのイギリス宰相メルバーン子爵ウィリアム・ラムの妻)とつきあったがすぐに2人は破局した。その後もキャロラインは彼につきまとい続け、彼への思いから身をやつしやせ細った。これに対してバイロンは骸骨のようだと述べている[11]。また異母姉のオーガスタ・リーと関係を結び、彼女はエリザベス・メドラ・リーを産んだ。その後1815年1月2日、レディ・キャロラインの従姉妹のアナベラ・ミルバンクとダラムで結婚した。同年12月10日、2人の間にはエイダ・ラブレスが産まれた[12]が翌1816年1月16日、アナベラは娘を連れて彼の元を去り、4月21日バイロンは離婚証書にサインをしている。その後ヴェネツィアに滞在した際には既婚のマリアンナ・セガティ、22歳のマルガリータ・コーニと関係を持った。コーニは読み書きが出来なかったが夫の家を離れ、バイロンと同居した。2人はしばしば争いバイロンは自身のゴンドラで夜を過ごすことが多かった。その後彼がコーニに家を出て行くよう言い放ち、彼女は運河に身を投げた。1818年から1820年にラヴェンナに滞在した際にはグィッチョーリ伯爵夫人テレサと関係を持った。
そんなバイロンが僅か36年の生涯に、詩人として数多くの詩集や詩劇をものすることができたのは人並み外れた速筆の故である。彼が詩集『ララ』を書いたのは、舞踏会から帰宅して衣服を脱ぎ換える間のことであり、詩劇『海賊』は4日間で、『アバドスの花嫁』は10日間で書いている。
また動物好きであり特に愛猫家であったため、愛猫5匹に加えて、馬や犬、猿、鳥を飼っていたという[13]。