閣下
(英語版)初代ランズダウン男爵ジョージ・グランヴィル(英語: George Granville, 1st Baron Lansdowne PC、1666年3月9日 ? 1735年1月29日)は、イギリスの詩人、劇作家、政治家。 バーナード・グランヴィル 最初は政治と文学の両方に興味を持ち、1677年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[3]。在学中にジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・モデナがケンブリッジ大学を訪れたとき、彼女を歓迎する詩作を書いた[4]。その後はパリで過ごし、1688年の名誉革命でジャコバイト側が敗北すると、イングランドでしばらく引退生活を過ごした。1690年代中期までにジョン・ドライデンの友人になり、劇作家としての道を歩むようになった。グランヴィルは『The She Gallants』という風俗喜劇を書いたが、1695年の上演は失敗に終わった。ほかにもホメーロスの『イーリアス』の第1巻からとった『The Heroick Love』(1698年初演[4])を書き、ドライデンに倣ってウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の18世紀版と言える『ヴェニスのユダヤ人』(The Jew of Venice、1701年)を書いた。また1705年の『The British Enchanters』というオペラ風な華やかな演劇はトマス・ベッタートン
生涯
初期の経歴
文学において
サミュエル・ジョンソンはグランヴィルの(演劇風の詩作以外の)詩作がエドマンド・ウォラー(英語版)のそれを盲目的に模倣したものであると評したが、グランヴィルの詩作の一部は発表当時は人気があった。また、グランヴィルはアレキサンダー・ポープを激励しており、ポープは『アーバスノットに与える書(英語版)』でグランヴィルへの謝辞を書いている[5]。 グランヴィルの両親と親族にあたる初代バース伯爵ジョン・グランヴィル
政界において
ゴドルフィン=マールバラ政権が倒れると、グランヴィルはコーンウォール選挙区(英語版)の議員になり、1710年9月28日には戦時大臣に任命された[7]。戦時大臣の在任中に軍需品や募兵に関する重要な法案が議会を通過するよう留意したが、トーリー党政権期のグランヴィルは家族内紛や法廷闘争に悩まされた。すなわち、第3代バース伯爵ウィリアム・グランヴィルが1711年に子供のないまま死去すると、ジョージ・グランヴィルはグランヴィル家の世嗣ぎになったが、バース伯爵は継承できず、1712年1月1日にビディフォードのランズダウン男爵に叙されただけだった[8]。ジョージ・グランヴィルは多くの時間や資金を費やしてバース伯爵の爵位を確保しようとしたが、結果は失敗に終わった。戦時大臣としても汚職を疑われ、また選挙で対立候補を立てられたため資金を費やして選挙戦を戦わざるを得なかった。1712年8月18日、枢密顧問官に任命された[6]。また、1712年7月から1713年8月まで王室監査官(英語版)を、1713年から1714年まで王室会計長官(英語版)を務めた[6]。
1714年にアン女王が死去すると、ジョージ1世が王位を継承したが、ジョージ1世がホイッグ党を支持したため、トーリー党員で官職を務めた人物はほぼ全員罷免され、ランズダウン男爵もその1人だった。ランズダウンは不平を感じてジェームズ老僭王と秘密裏に文通を交わすようになり、老僭王はアン女王が創設したランズダウン男爵の爵位を承認しなかったものの[注 2]彼を改めてランズダウン男爵に叙し、さらにバース伯爵にも叙した。1721年11月3日にはさらにモンク=フィッツヘモン侯爵とアルベマール公爵に叙した。これらの爵位はいずれもジャコバイト貴族におけるイングランド貴族に属したため、グレートブリテン王国国内では承認されなかった。このうち、「フィッツヘモン」は家祖とされるリチャード・デ・グレンヴィル(英語版)(チャールズ2世が1661年にジョン・グランヴィルを初代バース伯爵に叙したときの特許状より[9])がロバート・フィッツヘモン(英語版)の部下だったことに由来し、「モンク」と「アルベマール」はモンク家のアルベマール公爵位に継承者がいなくなった場合にバース伯爵家が継承するとの規定に由来[9]、「ランズダウン」は祖父ベヴィル・グランヴィルがランズダウンの戦い(英語版)で戦死したことによる。