ジョージ・クルック
George Crook
1828年9月8日-1890年3月21日(61歳没)
ジョージ・クルック将軍
生誕オハイオ州テイラーズビル
死没イリノイ州シカゴ
軍歴1852年-1890年
最終階級少将
戦闘
南北戦争
メリーランド方面作戦
サウス山の戦い
アンティータムの戦い
チカマウガの戦い
クロイズ山の戦い
シーダークリークの戦い
インディアン戦争
墓所アーリントン国立墓地
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ジョージ・クルック(英: George Crook、1828年9月8日-1890年3月21日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、南北戦争とインディアン戦争での傑出した働きで最も著名である。 クルックはオハイオ州テイラーズビル(今日のデイトン近く)に近い農園で、トマスとエリザベス・マシューズ・クルック夫妻の息子として生まれた。連邦議員ロバート・シェンクに陸軍士官学校入学を指名され、1852年に卒業したが、成績は同期の最下位近くだった。名誉少尉として第4アメリカ歩兵連隊配属となり、1852年から1861年までカリフォルニア州で勤務した。オレゴン州やカリフォルニア北部で勤め、幾つかの先住民種族と戦った。1857年のピット川遠征隊を率い、幾つかの戦闘の一つでインディアンの矢で重傷を負った。現在のカリフォルニア州クラマスにターワー砦を築いた。1856年に中尉、1860年に大尉に昇進した。1861年に東部勤務を命ぜられ、第36オハイオ志願歩兵連隊の大佐になった。 クルックはバージニア州出身のメアリー・タプスコット・デイリーと結婚した。 南北戦争が始まると、第36オハイオ志願歩兵連隊の大佐に任官され、バージニア州西部でこの部隊を率いた。1862年9月7日に准将に昇進した。メリーランド方面作戦ではカノーハ師団(ポトマック軍第9軍団に付設)のオハイオ連隊からなる1個旅団を指揮した。サウス山の戦いやアンティータムの戦いに参戦した。部下の一人だった第23オハイオ歩兵連隊のラザフォード・ヘイズとは終生続く友情を培った。 クルックは1863年9月のチカマウガの戦いでカンバーランド軍の1個騎兵師団を指揮し、その後カノーハ師団長として東部戦線に戻った。 1864年春の作戦開始にあたり、ユリシーズ・グラント中将は大小取り混ぜあらゆる前線で北軍の前進を命じた。グラントはクルック准将にはウェストバージニア州チャールストンの冬季宿営所に派遣し、リッチモンドとテネシー州ノックスビルや南西部とを繋ぐ主要幹線であるバージニア・アンド・テネシー鉄道への攻撃を行い、バージニア州ソルトビルにある南軍の製塩工場破壊を命じた。 この時35歳のクルックはバージニア州シティポイントの軍本部に出頭し、そこでグラントが任務を直に説明した。クルックのカノーハ師団はチャールストンの140マイル (220 km)南、ダブリンまで進軍しそこの鉄道を攻撃するよう指示された。ダブリンでは鉄道を使えなくし、南軍の軍事施設を破壊することになっていた。続いて数マイル東にあるニュー川に架かる鉄道橋を破壊することとされた。製塩工場の破壊と共にこれらの行動が成し遂げられれば、クルック隊は東に行軍し、その間にシェナンドー渓谷を南に進軍しているはずのフランツ・シーゲル少将の部隊と合流することとされた。 兵士達は何ヶ月にもわたる退屈な守備兵任務の後で戦える準備ができていた。クルックはその任務の性格や目標を明かさなかったが、あらゆる兵士が何か重要なことが始まろうとしていることを感じていた。第2旅団の指揮官ラザフォード・ヘイズ大佐は「全ての行動が早い行動を指し示している」とその日記に記した。 1864年4月29日、カノーハ師団はチャールストンを出て南に向かった。クルックはウィリアム・W・アブレル准将の部隊を西のソルトビルに派遣し、9個歩兵連隊、7個騎兵連隊および15門の大砲、総勢約6,500名を3個旅団に編成してダブリンに向けて進んだ。その春のウェストバージニア田園は美しかったが、山岳地の行軍は困難さを伴った。道は狭く急であり、春の雨のために踏みつける足が道路をぬかるみに変えたので速度が鈍くなった。幾つかの場所ではクルック隊の工兵が流出した所に橋を架けてから前進しなければならなかった。 部隊は5月2日にファイエットに到着し、その後ローリー・コートハウスやプリンストンを通過した。5月8日の夜、部隊はダブリンの10マイル (16 km)北、シャノン橋で宿営した。 ダブリンの南軍は直ぐに敵が接近していることに気が付いた。その指揮官ジョン・マコーズランド大佐はその1,100名の部隊の撤退に備えたが、輸送手段が到着する前に、アルバート・G・ジェンキンス准将からの伝令が二人の部隊でクルック隊の進軍を止めるようジョン・ブレッキンリッジ将軍から命令されたと伝えた。ジェンキンスとマコーズランドの連合部隊は2,400名になった。上級士官であるジェンキンスが指揮を執った。 クルックは5月9日の朝に宿営を畳むと、南のクロイズ山の山脚頂上に部隊を移動させた。北軍の前には険しい深い森の斜面と底部の広さが400ヤード (360 m)の牧草地があった。牧草地の向かい側はもう一つの山脚がせり上がっており、そこに急ごしらえの防塞の背後でジェンキンス隊が待ち構えていた。 クルックはカー・B・ホワイト大佐の第3旅団を森を抜けて敵軍右へ側面攻撃を掛けるよう派遣した。午前11時、ヘイズの第1旅団とホレイショ・G・シッケルの第2旅団に斜面を降りて牧草地の端まで移動させ、そこでホワイト旅団の銃声を聞けば直ぐに南軍に正面攻撃を掛けるよう命じた。 前の斜面は大層急だったので士官達は馬を下り徒歩で降りなければならなかった。クルックは攻撃を先導するはずのヘイズの旅団と共に行動した。長く心配な待ち時間の後で、ヘイズは遂にその左方で砲声を聞き、兵士を率いて牧草地を緩り進み出て南軍のマスケット銃や大砲の砲火の中に進んだ。クルックはそれを「ゴーリング」(苛立たせる)と呼んだ。その速度は敵陣に近付くにつれて速くなったが、上り坂に差し掛かる直ぐ前に腰の深さの小川に出くわした。この障害ではほとんど遅れることもなく、北軍の歩兵は丘に駆け上がり南軍防衛兵に接近戦を挑んだ。 この小川で問題に直面したのはクルック将軍只一人だった。クルックは馬から降りて、まだ乗馬用の高い長靴を履いており、流れに踏み込んだときに長靴が水で満たされ潜り込んだ。近くにいた兵士が指揮官の腕を掴んで向こう岸へ引き上げた。 北軍兵が荒削りの南軍防衛兵に接近すると荒々しい白兵戦が起こった。南部兵は追い込まれ再結集を図ろうとして再度突破されて、丘を越えてダブリンの方向へ撤退した。 北軍兵は数百の南軍兵を取り囲んで捕虜にし、負傷して倒れていたジェンキンス将軍も捕獲した。この時点で北軍の規律が動揺し、逃亡する敵兵を組織的に追撃できなかった。クルックは興奮と激しい行動のために気を失ってしまい指揮力を発揮できなかった。 ヘイズ大佐は冷静さを保ち、戦勝の場に屯する兵士の中から約500名を編成した。この即席の部隊でヘイズは南軍兵の直ぐ後を追いかけた。 クロイズ山の戦いが続いている間に、ダブリン駅に列車が入り、ソルトビルでアブレル隊を破ってきたばかりのジョン・ハント・モーガン将軍の新鮮な騎兵隊500名を吐き出した。この新着部隊が戦場に急行し、クロイズ山から撤退してくる僚友に会った。この援兵が壊走を止めたが、ヘイズ大佐は前に現れた部隊の勢力を知らぬままに、即座に部隊兵に「悪魔のように叫べ」と命じ、敵兵に突入させた。数分の間にクルック将軍が師団の残りを連れて到着し、南軍は敗れて逃走した。 クロイズ山では北軍に688名の損失を出し、南軍は583名が戦死、負傷および捕虜となった。 クルックは抵抗もなくダブリンにその部隊を移動させ、鉄道や軍需補給所を破壊した。1隊は東方に派遣して線路を剥がし枕木を燃やさせた。翌朝主力部隊は次の目的地、数マイル東で鉄道の重要な地点ニュー川橋に出発した。 この時マコーズランド大佐が指揮していた南軍は橋を守るためにニュー川の東岸で待機した。クルック師団は西岸で停止し長い無益な砲撃戦が続いた。クルックは南軍の大砲からの危険性がほとんど無いことを見て取り、橋の破壊を命じた。両軍は橋の構造が川に落ちていく雄大な眺めを畏敬の念で眺めていた。マコーズランドはそれ以上北軍に抵抗する資源も無かったのでそのボロボロになった部隊を東方に退かせた。 クルック将軍は大きな略奪をしようにも適していない地帯で物資が乏しくなっており、2つ目の命令である東のシェナンドー渓谷に向かってシーゲル隊と合流することに思い至った。ダブリンでは、ロバート・E・リー将軍が荒野の戦いでグラント軍をひどく打ちのめしたという不確実な報告を傍受し、南軍の指揮官がはるかに優勢な敵軍をもってクルック隊にすぐにでも迫って来るのではないかと考えるようになった。 クルックはバージニア・アンド・テネシー鉄道を破壊するという主要な任務の部分を完遂していたので、その部隊を北に向かわせ、骨の折れる行軍の後でウェストバージニア州ミードウブラフの北軍基地に到着した。 その年の8月、クルックはウェストバージニア方面軍を指揮し、その部隊はフィリップ・シェリダン少将のシェナンドー軍に属した。クルックは1864年のバレー方面作戦にその軍団を率い、オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)、フィッシャーズヒルの戦いおよびシーダークリークの戦いに参戦した。
初期の経歴
南北戦争
初期の従軍
南西バージニア
シェナンドー渓谷
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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