第10代マーシャル伯爵ジョージ・キース
第10代マーシャル伯爵ジョージ・キース、プラシド・コスタンツィ
第10代マーシャル伯爵ジョージ・キース(英語: George Keith, 10th Earl Marischal、1692年/1693年 - 1778年5月28日)は、スコットランド王国出身でプロイセン王国軍の軍人、外交官。ジャコバイトの一員であり、1712年に父の第9代マーシャル伯爵ウィリアム・キース(英語版)からマーシャル伯爵位を継承、第10代にして最後のマーシャル伯爵となった。 第9代マーシャル伯爵ウィリアム・キース
生涯
初期の経歴
マールバラ公爵の下で従軍した[2]後、1714年2月3日に乗馬擲弾衛兵隊(英語版)の隊長に任命された[1]。アン女王が死去した時にはすでにジャコバイトになっており、ほかのジャコバイトが優柔不断でなければジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)を国王に戴いただろうという[1]。その後は擲弾衛兵隊の隊長を辞任したか罷免されてスコットランドに戻った。その道中、昇進を求めるためにロンドンに向かっていた弟ジェームズ・キースに出会い、彼を説得して引き返させている[1]。 1715年ジャコバイト蜂起では1715年8月27日にマー伯爵がアボイン
2度のジャコバイト蜂起
1719年ジャコバイト蜂起ではルイス島に上陸したスペイン軍の指揮をとった[1]。最初は奇襲でインヴァネスを占領するという計画だったが、タリーバーディン伯爵(英語版)との争いにより遅延が生じ、それが致命的な結果になった[1]。スコットランド本土に上陸した後、ジャコバイト軍はグレン・シールの戦いでジョセフ・ワイトマン(英語版)で襲われて大敗、スペイン軍は降伏、ジャコバイトは山中に散らばった[1]。マーシャル伯爵は重傷を負ったが西部島嶼部に逃亡、数か月間隠れた後スペインに逃れた[1]。
1719年の蜂起が失敗した後は主にバレンシアで過ごし、老僭王との文通を続けた[1]。1740年には老僭王によってマドリードに派遣され、イギリス遠征への援助を求めた[1]。1744年にフランスがイギリス侵攻を計画(英語版)すると、マーシャル伯爵が再びジャコバイト軍を率いることが持ち上がったが、結局1744年の蜂起は取り消され、続く1745年ジャコバイト蜂起ではマーシャル伯爵は参加しなかった[1]。 マーシャル伯爵はスペインを離れてウィーンに向かい、1745年頃[2]に弟のいるプロイセン王国に向かった[1]。1751年8月28日、ポツダムを離れて、パリ駐在プロイセン大使になった[1]。1752年、プロイセン王フリードリヒ2世により黒鷲勲章を授与され、ヌーシャテル侯国の総督に任命された[1]。直後にパリ駐在プロイセン大使から退官した[1]。1758年のホッホキルヒの戦いで弟ジェームズ・キースが死去すると、フリードリヒ2世は弔詞を書いてマーシャル伯爵に送った[1]。
外交官として