ジョージ・ガーシュウィン
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ジョージ・ガーシュウィン
George Gershwin
1937年撮影

基本情報
出生名Jacob Gershowitz
生誕 (1898-09-26) 1898年9月26日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク市 ブルックリン区
死没 (1937-07-11) 1937年7月11日(38歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス
ジャンルポピュラー音楽
クラシック音楽
職業作曲家
活動期間1916年 - 1937年

ジョージ・ガーシュウィン(ガーシュインとも、George Gershwin、1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカ合衆国作曲家。本名、ジェイコブ・ガーショウィッツ(Jacob Gershowitz)。

ジャズなどのポピュラー音楽クラシック音楽の両面で活躍し、アメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られる[1]

兄のアイラ・ガーシュウィン作詞家で、兄弟で共同制作した[1]
生涯

東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークブルックリンに生まれた[2]。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民である。

初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」だったとされる。父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになり、13歳の時から正式にピアノを習い始め、また、ヘンリー・カウエル和声を習うようになった[3][4]。しかし、少年期はいわゆる不良少年であり、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もあった。一方で黒人などの有色人種を差別しなかった。

彼は陽気な性格であり、ティン・パン・アレーでは、楽譜を売ることにも才能を表していた。出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「スワニー」で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となる[5]

1920年代以降は、作詞家となったアイラと組んで、レビューミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。ガーシュウィン兄弟によって作られ、後年までスタンダード・ナンバーとして歌われている歌曲は『私の彼氏(The Man I Love)』、『バット・ノット・フォー・ミー』、『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数に上る[6]

クラシックにも取り組み、1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』を発表。当時ガーシュウィンにとって管弦楽法は未知領域だったため、ファーディ・グローフェの協力を得て、ジャズとクラシックを融合させたこの作品は、「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価された[7]ラヴェルとガーシュウィン(右端)

その後独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残した。代表作として『パリのアメリカ人』(1928年)が知られる。因みに、オーケストレーションを学びたいがためにイーゴリ・ストラヴィンスキーの元に訪れた際、ガーシュウィンがクラシック作曲家としては異例の高収入で知られていたことから、逆に「如何すれば其処まで収入を上げられるのかこちらが教えてほしい」と言われたというエピソードが流布しているが、ストラヴィンスキーは晩年のインタビューでこれを事実無根だと否定している(一方で「でも、そういうことがあったら、楽しかっただろうなあ」とも語っている[8])。また、モーリス・ラヴェルにも教えを請うたが、「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われたという。さらにラヴェルはナディア・ブーランジェへの紹介状を書いたが、彼女も「ガーシュウィンには生まれながらの音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」と断ったという[9]

アイラと作家デュボース・ヘイワードとの協力によって書かれ、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ『ポーギーとベス』は、1935年にオール黒人キャストという意欲的な企画で初演されたが、初演時は反響は得られなかった。のちに評価が高まり、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。劇中で歌われる『サマータイム』はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして様々なジャンルでカバーされ、広く親しまれている[1]ガーシュウィンの霊廟

ガーシュウィンは1920年代初頭から腹痛の発作と頑固な便秘にしばしば悩まされ、自ら「作曲家の胃袋(composer's stomach)」と呼んでいた。また、1936年の暮れごろから状態になったり、いらいらしたりしていたが、これは超過密スケジュールが原因とも解釈された。彼は「ゴムの焼けるような異様な臭い」を感じ、その直後、意識消失があった。この異臭に引き続き起こった意識障害発作は、きわめて典型的な鈎回発作、すなわちてんかんと見られている。

床屋の椅子の上でも、再び同じ発作があった。これ以降同様の発作が繰り返し起こるようになり、その頻度が増してくると同時に明け方になると起こる強い頭痛も加わった。また頭痛に、めまいと吐き気も伴うようになってきた。彼は毎日のように意識障害発作を生じており、発作直前にはいつも異臭を感じるようになっていた。1937年7月9日に昏睡状態となり[10]、彼が受けた検査のフィルムには、右側側脳室の圧迫が写っており、右側頭葉の腫瘍と思われた。7月10日に行われた開頭手術の結果、右側頭葉は嚢胞を伴う大きな腫瘍がみつかり、5時間に及ぶ手術が行われた。大きな腫瘍は摘出されたが、術後も意識は戻らず、7月11日の朝に死去した[11]。38歳没。手術された脳腫標本によると、多形膠芽腫とされている[12]。遺体はニューヨーク州ヘースティングズ=オン=ハドソンにあるウェストチェスターヒルズ墓地に造られた霊廟に葬られた。

舞台作品の数は50曲にのぼり、その中でオペラは2曲、ミュージカルが50曲、映画音楽は4曲しか残されていない。管弦楽曲は7曲を作曲している。室内楽曲は2曲のみ。


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