ジョージタウン_(ワシントンD.C.)
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この項目では、アメリカ合衆国ワシントン特別区のジョージタウン地区について説明しています。同国ワシントン州シアトル市のジョージタウン街区(英語版)については「en:Georgetown, Seattle」を、その他の用法については「ジョージタウン」をご覧ください。
ワシントンD.C.の地図。ジョージタウンは左の川べり、栗色の範囲。金色のドームをいただく由緒ある建物は、ウィスコンシン・アヴェニューとMストリートの交差点を見下ろす。旧リッグス銀行支店時代から馴染み深い姿で、合併後はPNC銀行の支店が入居する。オークヒル霊園の礼拝堂(英語)は1850年建立、国の歴史登録財。(ジェームズ・レンウィック設計)

ジョージタウン(: Georgetown)は、アメリカ合衆国の首都コロンビア特別区(ワシントンD.C.)の北西部の名称。ポトマック川河岸にあり、特別区制定前は独立した都市であった。
地理チェサピーク・オハイオ運河の通称は「CアンドOカナル」。

この都市は、南はポトマック川と、東はロック・クリークと、北はグラバー・パーク、西はジョージタウン大学と境を接しており、特に西隣の区域はポトマック川を見渡す断崖の上に位置している。そのため南北を貫く通りには急道がやや多い。中でもMストリートとプロスペクト・ストリートが通る小高い丘には「エクソシスト・ステップス」と呼ばれる有名な階段があり、勾配がとてもきつい。

この街の小売業界で最も重要な通りはMストリートとウィスコンシン・アヴェニューであり、ここに並ぶ高級ファッション店は年間を通じて大勢の観光客と買い物客を集めている。また河岸に面したKストリートの発展もめざましく、アウトドア形式を呼び物にしたバーやレストランは、ボートレース観戦に人気のスポットである。MストリートとKストリートの間には歴史あるチェサピーク・オハイオ運河(英語版)が流れ、今日では遊覧船が定期運航しているほか、両岸の沿道をジョギングしたり散歩する人も多い。

市内にはジョージタウン大学の主要キャンパスがあり、フランスモンゴルタイウクライナ大使館を置く。この他の主な観光名所を以下に挙げる。

ダンバートン・オークス庭園国際連合設立会議(1944年)の会場。ここに庭園と屋敷を構えたアルゼンチン大使夫妻の名前を冠している。

オールド・ストーン・ハウス[注釈 1] ― ワシントンD.C.で最古の建造物。1765年に建てられ、Mストリートに位置する。

マウント・ザイオン霊園[2] ― 初期ワシントンD.C.のアフリカ系市民が求めた無料の埋葬地。

テューダー・プレイスとダンバートン裁判所

オークヒル墓地 ― 第16代大統領エイブラハム・リンカーンの息子ウィリーほか、著名人が眠る。ウィリアム・ウィルソン・コーコランによって寄贈され、墓地内のゴシック調のチャペルと門は建築家ジェームズ・レンウィック設計。

沿革オールド・ストーン・ハウスは市内に現存する最古の建造物。人気の観光名所の一つでもある。

ジョージタウンは1696年にヨーロッパ人によって建設された。メリーランド地方(初期のフレデリック、後のモントゴメリー郡)のイギリス植民地の一部とされた1751年に初めて正式に都市として認められ、その後13植民地の一部になった。海岸平野と古い山地との境にできる瀑布線に位置しており、外洋航路の船舶にとってはポトマック川を遡上できる最上流地点にあたる。そうした立地条件から港湾都市として繁栄し、ポトマック川からチェサピーク・オハイオ運河へ、タバコなどの船舶貨物を転送する重要な中継地点となったのである。

ジョージタウンはアメリカ合衆国の国歌の作詞者フランシス・スコット・キーの故郷でもある。米英戦争下のワシントンD.C.はイギリス軍の襲撃を受け、キーの親戚ウィリアム・ビーンズ博士は敵軍の後方部隊に拘束された。退却する敵軍は博士を捕虜として連行し、ボルチモア近くのイギリス艦隊係留地に留め置いた。博士の釈放を求めて赴いたキーも抑留され、イギリス軍艦のマクヘンリー砦攻撃を目撃すると、砦にひるがえるアメリカ国旗をから歌詞を思いついたという故事が伝わっている。
名称の起源

メリーランド州フレデリック郡「タウン・オブ・ジョージ」として1751年に成立したときの命名者は、ジョージ・ベオルとジョージ・ゴードンである。両者とも名前がジョージだったこと、当時のイギリス王もジョージという偶然の一致から、一方でジョージ2世を称える目的で名づけたとする説があり、他方、二人の設立者の名を取っただけだとする説もある[3]。後にモントゴメリー郡へ分割された。
ワシントンD.C.との合併Oストリートの路面に残る軌道。1890年代にコンデュイット式トラム・カーが走っていた。

アメリカ独立戦争後、ジョージタウンは合併によって連邦コロンビア特別区の独立行政権のある「コロンビア特別区ジョージタウン市」となる。特別区への合併対象はワシントン市、アレクサンドリア市、新設されたワシントン郡とアレクサンドリア郡(現・バージニア州アーリントン郡)があった。

1862年、ワシントン・ジョージタウン鉄道会社が馬車鉄道線をジョージタウンのMストリートからワシントン市内のペンシルベニア・アヴェニューに敷設した。これが2つの都市を統合へと導く大きな要因になった。

1871年以前は、制度上はワシントン市と併合されておらず、また名目上は1895年まで別個の都市であり続けた。併合の際、旧ジョージタウン市内では道路名を変更し、ワシントン市内の呼称を継承した。
後年

南北戦争で多くのアフリカ系住民がこの都市に移入してコミュニティを造ったが、隆盛したチェサピーク・オハイオ運河も1890年の洪水と鉄道の拡大によって終止符を打たれ、景気が悪化した市内には低所得者のスラムが増えた。ところがそれが幸いし、古い家並みが比較的よい状態で現存する結果に結びついている。

河岸地域は20世紀前半まで、港湾荷役で栄えた時代の特徴を保地、製材業やセメント製造業、製肉業の拠点となり工場が置かれ、ごみ焼却炉の煙突がそびえ立った。1949年には、自動車が都心部へ向かう自動車交通の迂回路として、Kストリートの上に高速道ホワイトハースト・フリーウェイを高架で通す。ジョージタウン都心を避け、キー・ブリッジ経由でワシントン市内へ進入できるようになった。
高級住宅化28番ストリート沿いに連なる店舗。連日、買物客で賑わう。

当初は、新しく形成されたコロンビア特別区内の唯一の都市として、ファッションや文化の中心的役割を担った。しかしワシントン市の発展につれ、社会の中心はロック・クリークを越えて東へ移っていく。市内の環状交差路周辺に新ヴィクトリア朝様式の住居が現れ、好況の時代を代表するような高級住宅群がマサチューセッツ・アヴェニュー沿いに増え始めても、多くの「古き名門」は古き良きジョージタウンにしがみついた。20世紀初頭を迎えた都心部は、周辺地区の住民から見ると、すでに盛りを過ぎていたのである。

周辺地域の高級住宅化が進み始めた1930年代、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト政権下の政府要人が数名、移り住む。近隣住民こそ、過去の栄光を取り戻し始め、やがて第二次世界大戦が終わると、1950年代に新市民流入の波が訪れ、ほぼ同時期にジョージタウン市民組合が結成された。こうした新市民にはエリートの肩書きを持つ教養人が多く、近所の古くからの住民に歴史的に重要な生活や姿に強い関心を示したのである。ジョン・F・ケネディ大統領(第35代)もやはり元住民であり、大統領選出の際には地域一帯の上流社会層は有頂天になる。1950年代の国会議員(上院議員)時代のケネディはジョージタウンで暮らし、妻のジャクリーン・ケネディ・オナシスが社交パーティーを主催していた。市内に住み主催者として名前を知られた人々は、中心部のクラブやホテルを利用してパーティーを開き、あるいはまた北の16番ストリートから離れた場所に政界のエリートをおしのびで招くなどしていた。ケネディといえば、1961年1月に行った大統領就任式の会場に私邸を使っている(Nストリート3307 番のタウンハウス)。以来、ジョージタウンは合衆国の首都圏という中心地で、富と品格のリーダーという地位を確立したのである。
現在

土地開発と高級住宅化は極限まで進み、かつてジョージタウン繁栄を牽引しながらすっかり寂れた産業河岸の大規模再開発へと集約していく。昔の名残を留めるもののひとつとして、廃棄物焼却炉の煙突とホワイトハースト・フリーウェイの命運ははっきりと分かれた。前者は史跡に指定され、2003年に新設されたリッツ・カールトンホテルの敷地内に保存されている。後者は取り壊しが提案されている[4][出典無効]。


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