ジョヴァンニ・メッセ
Giovanni Messe
イタリア王国
第4代王国軍参謀総長
ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe、1883年12月10日 - 1968年12月18日)は、イタリア王国の軍人及び政治家。
第二次世界大戦中のイタリア陸軍将官は批判されることが多いが、彼は優秀な指揮官と評価される事が多い。 アプリア州の古都ブリンディシ近郊に生まれ、18歳の時に軍に志願、一兵士として軍歴をスタートした。イタリア・トルコ戦争でのリビア制圧に功を上げるなど順調に戦歴を重ね、第一次世界大戦ではカポレットで目の当たりにしたドイツ軍の戦術を手本にアルディーティ兵(イタリア語で「突撃歩兵」の意)の創設と訓練に従事した。 アルディーティ兵は単独で攻勢に出たオーストリア=ハンガリー帝国軍をモンテ・グラッパの戦闘で打ち破り、最終的にオーストリア軍に攻撃を挫折させる決め手となった。自身も前線で部隊を率いて勇敢に戦い、敢闘章を4回、戦功十字章を1回受勲して大佐に昇進。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世直々に副官に任命され、またサヴォイア軍務勲章
経歴
生い立ち
1935年9月、准将に昇進していた時期、ロドルフォ・グラツィアーニらとともに第二次エチオピア戦争に参加、機械化旅団を率いてエチオピア軍を破った。遠方での戦いをそつなくこなしたことで、ほどなく少将に任命され、工業力に乏しいイタリア陸軍にとって虎の子の戦車師団を受け持つ役目を与えられた。1939年、サヴォイア軍務勲章の士官称号(Ufficiale)を与えられた。 二度目の大戦で最初に命じられた任務はウバルド・ソッドゥ(en:Ubaldo Soddu
第二次世界大戦
アルバニア副総督
幾つかの部隊の指揮を委ねられ、山岳地帯で防衛ラインを形成していた敵指揮官のアレクサンドロス・パパゴス(en)の軍を破って、最も深くギリシャ国境に進撃する事に成功した。しかし、ソッドゥが必要以上にギリシャ軍を侮って戦力を出し惜しんだことからギリシャ軍の増派と反撃を許し、さらに英軍の参戦や冬の訪れで戦いはアルバニア国境で泥沼化していった。逃亡するアルバニア兵の拘束とギリシャ軍との戦闘に追われる日々はドイツ軍の参戦まで続く事になる。 ムッソリーニの判断次第では、もしかすればより早い段階で北アフリカのイタリア装甲部隊を委ねられていた可能性があった。しかし実際に下された決断はイタリア・ロシア派遣軍(CSIR Corpo di Spedizione Italiano in Russia)の総指揮官への任命であった。 対ソ戦で装甲部隊を持たないというハンデを機械化歩兵と騎兵師団からなる同部隊の機動力を広大な草原地帯で最大限に発揮する事で埋め合わせた。各所でソ連軍を破るCSIR軍に、ギリシャでの躓きを見ていたドイツ軍の評価が翻るのに長い時間はかからなかった。ブラウ作戦を前にしてドイツ軍はイタリア陸軍に大規模な増派を要請し新たに山岳師団などが加わったイタリア第8軍が形成されるが、その功労者たる自身は後任のガリボルディ大将に役目を譲っていた。自身が去った後も東部戦線のイタリア軍部隊は活躍を見せているが、スターリングラード攻防戦後にムッソリーニの命令で解散されている。 退任時にはイタリア王家はサヴォイア軍務勲章を司令官称号(Commendatore)に格上げし、またドイツのアドルフ・ヒトラー総統も騎士鉄十字章を授与するなど軍功を労った。 ロシアから帰還後すぐさまエルヴィン・ロンメル指揮下の北アフリカ軍団を再編して立ち上げられる予定であったイタリア・ドイツ戦車軍の司令官に推薦された。一方、前線ではトーチ作戦でヴィシーフランス軍が連合国に寝返り、アメリカ軍を主体とした連合軍がチュニジアの中心地チュニスを目指して攻勢を開始していた(チュニス攻勢
ロシア遠征
アフリカ戦線詳細は「en:Tunisia Campaign」を参照
伊第1軍は4分の1がドイツ軍部隊から編成される混合部隊であったが、メッセはドイツ人とイタリア人の双方をよく纏め、ロンメルが残した防衛計画の完成に全力を注いだ。これらはヴィシー政権時代に残された要塞線マレト・ライン(英語版)を活用するもので、メッセはカセリーヌの勝利に士気を上げるアメリカ軍が追撃に移るまでに要塞線の再建を完成させた。