ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ
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ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(Giovanni di Montecorvino、1247年-1328年)はイタリアモンテコルヴィーノ・ロヴェッラ出身のカトリック司祭宣教師インドを経て中国で宣教活動を行い、多くの信徒を獲得した。アジアへのキリスト教伝播に大きな役割を果たした。
目次

1 生涯

2 人物

3 北京と泉州の司教座

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

生涯

ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(以下モンテコルヴィノ)はフランシスコ会司祭であった。当時のフランシスコ会は非キリスト教徒への宣教を主な事業としており、モンテコルヴィノは東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスに招かれ、東西教会統一のための特使として教皇グレゴリウス10世のもとへ派遣されたこともあった。

後にニコラウス4世の命を受けて近東および中近東地域、特にアジア出身の遊牧民への宣教を行うため1275年から1289年にかけてペルシャなど中東各地へ赴いた。1286年イルハン朝の君主アルグンはモンゴル皇帝クビライ(在位:1260年-1294年)の依頼としてカトリックの宣教師の中国派遣をネストリウス派の司教バール・サウマを介して教皇に要請してきた。そのころのクビライはキリスト教に興味を持っていたといわれる。こうして中東から戻ってきたモンテ・コルヴィノにニコラウス4世から中国への布教という新たな使命が与えられた。

1289年、モンテコルヴィノは教皇庁の公式使節としてローマを出発した。モンテコルヴィノの旅にはドミニコ会員ニコラス・デ・ピストイア(Nicholas de Pistoia)および商人ペトルス・ルカロンゴ(Petrus de Lucalongo)が同伴した。一向はペルシャに入り、現在のイラン東アーザルバーイジャーン州にあるイルハン朝の首都タブリーズに到着した。

ペルシャを出た一行は1291年インド洋をわたり、「使徒トマスの国」と呼ばれたマドラスに1年ほど滞在して宣教し、100人ほどに洗礼を授けたが、同行したニコラスはインドで没した。1291年12月、モンテコルヴィノはインドから書簡を書いている[1]。彼が中国に到着したのは出発から五年目の1294年であった。モンテコルヴィノが大都(現在の北京)に到着したのは、クビライが没し、テムルが後を継いだころであった。テムルはキリスト教を良く思っていなかったが、モンテコルヴィノの人柄を信頼するようになった。すでに中国には景教(キリスト教ネストリウス派)の信徒がおり、モンテコルヴィノが自らを正統であるとして彼らを批判してもテムルは取り立てて注意することもなかった。

1299年、モンテコルヴィノは北京に最初のカトリック教会を建設し、1305年には宮廷近くに第二の教会を建て、多くの信徒を獲得した。さらに身寄りのない子どもたちを引き取って教育し、ラテン語の初歩や聖歌を教えた。自身も中国語で説教ができるまでになったため、新約聖書詩篇の中国語の翻訳にも取り組んだ。1305年と1306年のモンテコルヴィノの手紙では中国においてカトリック信徒の数が増え、事業が拡大していること、ヨーロッパから「カタイ」(中国)にいたるルートが明らかになったことについて記している。1305年と6年の二通の書簡はカザリア(クリミア)のフランシスコ修道会管区に向けて記載されたもので、前者では聖人伝・聖歌集等の布教用の書籍の送付や同志の派遣を依頼している。

モンテコルヴィノは11年間、一人で働いていた。1303年になってようやくドイツ人フランシスコ会士アルノルドが中国にたどりついた。1307年、教皇クレメンス5世はモンテコルヴィノの宣教活動の成功を喜び、さらに7人のフランシスコ会員司教を派遣して、モンテコルヴィノを北京の大司教に任命することにした。


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