ジョン・W・キャンベル
[Wikipedia|▼Menu]

ジョン・W・キャンベル
John W. Campbell
ジョン・W・キャンベル
ペンネームドン・A・スチュアート
Don A. Stuart
誕生ジョン・ウッド・キャンベル・ジュニア
John Wood Campbell, Jr.
(1910-06-08) 1910年6月8日
ニュージャージー州ニューアーク
死没 (1971-07-11) 1971年7月11日(61歳没)
ニュージャージー州マウンテンサイド
職業SF雑誌編集
ジャンルSF
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

ジョン・ウッド・キャンベル・ジュニア(John Wood Campbell Jr., 1910年6月8日 - 1971年7月11日)は、アメリカ合衆国小説家SF作家編集者SF雑誌『アスタウンディング・サイエンスフィクション』(後の『アナログ』誌)の編集長を1937年から亡くなる直前まで務め、いわゆるSF黄金時代を築いた立役者の1人とされている。

アイザック・アシモフはキャンベルについて「SF界で最も強力な力を振るった人物で、特に編集長としての最初の10年間は完全にSF界を支配した」と評した[1]

作家としては、スペースオペラを本名で発表し、パルプ・マガジン的でない小説はドン・A・スチュアート (Don A. Stuart) の名で発表した。しかし、『アスタウンディング』誌の編集長となってからは創作をほとんどやめている。
生涯

1910年、ニュージャージー州ニューアークに生まれる[2]。父は冷酷な性格の電気技師だった。母は優しかったが気まぐれなところがあった。母には双子の姉妹がいて、幼いジョンはその叔母に嫌われていた。ジョンは母と叔母を見分けることができず、叔母を母と間違っては冷たく拒絶されていた[3]

マサチューセッツ工科大学 (MIT) に入学し、ノーバート・ウィーナーと友達になった。18歳でSFを書き始め、すぐに雑誌に作品が売れるようになった。21歳のころにはパルプ・マガジン作家としてある程度名が知られるようになったが、ドイツ語の試験に落ちてMITを中退させられた。その後デューク大学で1年間過ごし、1932年に物理学の学士号を得て卒業した[4][5]

1931年に最初の結婚をしたが、1949年に離婚、1950年に再婚した。人生の大半をニュージャージー州で過ごし、同州の自宅で亡くなった[6]
作家としての経歴

19歳のとき、『アメージング・ストーリーズ』誌1930年1月号にて "When the Atoms Failed" という短編で作家デビューした。実はそれ以前に "Invaders from the Infinite" という作品も『アメージング』誌に売れていたが、編集者が原稿を紛失してしまい、掲載されなかった[5]。初期作品にはスペース・オペラの『アーコット、モーリー&ウェード』シリーズなどがある。科学性の強い作風は1930年代のアメリカSF界において高く評価された。

キャンベルは宇宙冒険ものの作家として、まず地位を確立した。1934年に違った傾向の作品を書き始めたとき、妻の旧姓 (Stewart) から考案したペンネームを使った[3]

1930年から1930年代末ごろまで、キャンベルはどちらの筆名でも成功を収めた。ドン・A・スチュアート名義で発表された傑作として「薄暮」(アスタウンディング誌、1934年11月)、「夜」(アスタウンディング誌、1935年10月)、「影が行く」(アスタウンディング誌、1938年8月)がある。「影が行く」は、南極探検隊が異星人の宇宙船の残骸を発見する話で、不定形の悪意ある異星生命体が登場する。この作品は、『遊星よりの物体X』(1951年)、『遊星からの物体X』(1982年)、『遊星からの物体X ファーストコンタクト』(2011年)として3度映画化されている。「影が行く」が発表された当時、キャンベルは28歳で、様々な雑誌に電子工学や無線工学についての記事を書いていたころだった。キャンベルはアマチュア無線を趣味としていた。

SF作家としての代表作には、月面探検隊のサバイバル生活をリアルに描いた『月は地獄だ!』(1951年)が挙げられる。
編集者としての影響

1937年後半、F・オーリン・トレメインはキャンベルを『アスタウンディング』誌の編集者として雇った[7][8]。編集長となるのは1938年5月のことであるが[9]、作品の買い付けはそれ以前から任されるようになっていた[7][8][10][11]。編集長に就任するとキャンベルは早速改革に乗り出し、「ミュータント」という言葉を独特な小説を意味するのに使い、1938年3月には誌名を『アスタウンディング・ストーリーズ』から『アスタウンディング・サイエンス・フィクション』に変えた。

1938年3月にレスター・デル・レイを見出したのを手始めとして、1939年には多数の新人作家を発掘することになった。これが「SF黄金時代」の始まりであり、特に1939年7月号が大きな転換点となった[12]。7月号にはA・E・ヴァン・ヴォークトのデビュー作「黒い破壊者」、アシモフの「時の流れ」が掲載され、8月号にはロバート・A・ハインラインのデビュー作「生命線」、9月号にはシオドア・スタージョンのデビュー作が掲載された。

1939年には、ファンタジー専門誌『アンノウン』を創刊した[13]。『アンノウン』誌は戦争中の紙不足のため4年で休刊となったが、その編集方針は現代のファンタジーに重大な影響を及ぼした[14]

キャンベルはSF黎明期の最も重要で影響力のあった編集者とされている。"The Encyclopedia of Science Fiction" には「現代SFの形成に最も影響を与えた人物」と紹介されている[5]ロバート・A・ハインラインA・E・ヴァン・ヴォークトアイザック・アシモフなど多くの一流SF作家を育てた。また「亜光速で航行中の宇宙船が直角に方向転換する」ような作品を排除してSFの質を高めることに尽力した(ただしキャンベルの強硬な姿勢は後に反発を招いた)。これらの功績と創作活動によって、1940年代アメリカSFの立役者の一人と見なされている。

キャンベルは作家にアイデアを示唆したことでもよく知られており、先に買い取った表紙のイラストにマッチしたストーリーを作家に依頼することもあった。編集者としては特に、初期のアシモフとの関係で知られている。出世作となった短編「夜来たる」は彼のアイディアであり、有名な「ロボット工学三原則」もアシモフの短編を元に彼が定式化したものである。ただし一方で悪影響もあり、アシモフの『ファウンデーションシリーズ』で異星人が登場しないのは、白人至上主義者で異星人すら蔑視していたキャンベルとの衝突をアシモフが避けたためである。アシモフはキャンベルの影響について次のように記している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef